説 教 詩篇17篇15節 ヨハネ黙示録22章1−5節
「主の御顔を仰ぐ」 ヨハネ黙示録講解〔74〕
2026・03・22(説教26122163)
「(1)御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は神と小羊との御座から出て、(2)都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。(3)のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、(4)御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。(5)夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する」。併せて今朝の旧約の御言葉、詩篇第17篇15節をも、口語訳でお読みいたしましょう。「(15)しかしわたしは義にあって、み顔を見、目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう」。
私たちはよく、親しい人が亡くなった時、たとえその人がキリスト者でなくても「天国でまたお会いしましょう(お会いできますよね)」というようなことを申します。これはもちろん、間違いではありません。ましてや、その亡くなった人が洗礼を受けたキリスト者でありますならばなおのこと、私たちは亡くなった親しい者たちとの、神の永遠なる御国(天国)における再開の日を待ち望む者とされているからです。しかし、私はときどき思うのですが、天国において親しい人と再会する、愛する者と再び顔と顔を合わせて再会する、私たちキリスト者に約束された祝福と喜びと幸いは、本当に、ただそれだけのことなのでしょうか?。と申しますのは、少なくとも聖書においては、それが旧約であれ新約であれ、愛する者たちとの再会だけが祝福と幸いの全てであるとは、どこにも記されていないからです。
むしろ聖書が(それが旧約であれ新約であれ)絶えず強調しておりますことは、私たちはやがていつの日にか、亡くなった親しい者たち、愛する者たちと、主の御もとにおいて再会する祝福と幸いを約束されている。言い換えるなら、本当の幸いと喜びは、それは単に死んだ者たちと再会して旧交を温めることにあるのではなくて、なによりも主の御顔をともに仰ぎ、主の御もとにおいて再会し、罪と死に勝利して下さった主の御手の御支配の内に共にあることの祝福と幸いと喜びなのだということです。このことを忘れますと、キリスト不在の単なるセンチメンタリズム(感傷主義)に終わってしまうのです。事実として(残念なことですが)教会における葬儀説教にも、そのような「キリスト不在の単なるセンチメンタリズム」が紛れこんでいることが少なくないのではないでしょうか。
詩篇17篇を詠った預言者は15節において「しかしわたしは義にあって、み顔を見、目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう」と語りました。特にこの「義にあって」という言葉は、元々のヘブライ語を直訳いたしますなら「(十字架と復活の主イエス・キリストによる)救いに基づく神からの義を受けた私は」という言葉です。「(十字架と復活の主イエス・キリストによる)救いに基づく神からの義を受けた私は、(主の)み顔を見、目ざめる時、みかたちを見て、満ち足りるでしょう」と讃美告白しているのです。さらに申しますなら、この詩篇17篇を詠った預言者は、罪と死からの唯一の贖い主であられる十字架と復活の主イエス・キリストの御顔を仰ぎつつ、そこにこそ(ただそこにのみ)全ての人の唯一の救いと幸いがあることを宣べ伝えています。ですから大切なことは「主の御顔を仰ぐこと」なのです。やや極論めいたことを申しますならば「主の御顔を仰ぐこと」そのものが私たちの本当の救いなのです。
キリストの使徒ヨハネは、エーゲ海のバトモス島の洞窟において、御使(主の天使)によって筆舌に尽くせぬ素晴らしい幻を与えられました。それは、永遠なる神の都には1節にありましたように「いのちの水の川」が流れており、さらに「川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす」ものであった。この「いのちの川」は十字架と復活の主イエス・キリストによって全世界と歴史全体とに約束された永遠の救いと平和を現わしています。そして大切なことが続く3節と4節にこのように記されています。「(3)のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、(4)御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている」。ここで「のろわるべきものは、もはや何ひとつない」というのは、十字架と復活の主イエス・キリストによって、罪と死の支配が永遠に滅ぼされたからです。
イエス・キリストを「わが主、救い主」と告白して、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なる僕たちを(すなわち私たちを)もはや罪と死は永遠に支配することはできないのです。なぜでしょうか? 十字架と復活の主イエス・キリストはまさに「罪人のかしらなる者を救うために」十字架におかかり下さった神の御子であられるからです。これは言い換えるならば(神と本質を同じくしたもう神の御子が十字架において贖いの死を死んで下さったということは)罪によって神の外に出てしまった私たちを救うために、神自ら神の外に出て下さって(神ではないものになって下さって)そのような非常手段をもって(植村正久が語る「痛ましき手続き」によって)罪人のかしらを救って下さったということなのです。だから、その救いのみが唯一の真の救いなのです。
かつて折口信夫という民俗学者がおりました。この人は奈良の飛鳥にある飛鳥坐神社の宮司の家系に生まれた人でして、いわゆる日本の「八百万の神々」については全てを知り尽くしていた学者でした。この折口信夫は太平洋戦争で一人息子を亡くされるのですが、その戦死の知らせが届いたとき、このような和歌を詠みました。「天地に人を愛する神ありてもし物言はば我のごとけむ」。この歌の意味はこうです、もしもこの世界に(天地に)本当の神がおられるならば、その神は今の私のように物を言うおかたであろう。その「今の私のように」というのは、余りの悲しみのゆえに言葉を失い、呻き、叫び、のたうち回る以外にない、そのような私と同じような姿になって、この悲しみを共にして下さる神、という意味です。日本には古来より「八百万の神」がいると信じられてきたけれども、残念ながら、そのような神は一人もおられないではないか。私はそんな神は信じない。私が信じるのは(信じたいのは)「悲しみのゆえに言葉を失い、呻き、叫び、のたうち回る神さま」だけであると、そのように折口信夫は語っているわけです。
私たちの主イエス・キリストは、救いなど決してありえなかった私たち(つまり、救いから最も遠くはなれていた私たち)を救うために、まさにあのゴルゴタの十字架において、文字どおり「ずたぼろになって」最も痛ましき死を死んで下さった永遠の神の独子であられるのです。それは、罪によって「死と滅び」という名の「神の外」に出てしまった私たち、そして、そこからいかなる手段をもってしても救われえない私たちを、救うために、神みずからが神の外に出て下さったことです。さらに言うなら、真の永遠の神が、神ではないものになって下さったことです。それこそドイツの神学者モルトマンが語るように、真の神は「十字架につけられたまいし神」となって下さったのです。