説     教          イザヤ書601920節  ヨハネ黙示録212227

                   「主なる神と小羊」 ヨハネ黙示録講解〔73

                   2026・03・15(説教26112162

 

(22)わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。(23)都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。(24)諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの栄光をそこに携えて来る。(25)都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。(26)人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る。(27)しかし、汚れた者や、忌むべきこと及び偽りを行う者は、その中に決してはいれない。はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである」。

 

 30年ぐらい前のことですが、私はカトリック教会で行われた葬儀に出席したことがあります。その葬儀ミサの説教の中で、司式者であった司祭が「天国に入れるのは完全な人だけです」と言いました。私は専門がルター神学でしたから、カトリック教会についてもかなりの知識を持っています。ですから知識としては知っていましたが、改めて私たち改革長老教会との決定的な違いがあることを感じさせられました。そこで、なによりも今朝の御言葉の最後の27節をご覧ください。そこにこう記されています「(神の永遠の都に=天国に)はいれる者は、小羊のいのちの書に名をしるされている者だけである」。ここには唯一の明確な答えが示されています。天国には「完全な人だけが入る」のではありません。この27節に明確に記されているように「小羊のいのちの書に名をしるされている者だけ」が天国に入れるのです。

 

そして「小羊のいのちの書に名をしるされている者」とは何かと申しますと、それは「十字架と復活の主イエス・キリストによって罪贖われた者たち」のことなのです。ルターの言葉で申しますなら(これはルターのローマ書講解の中にある言葉ですが)「ただ十字架と復活の主イエス・キリストによって罪を贖われ、赦され、救われた罪人たちだけが天国に入れる」のです。道徳や行いにおいて完全な人ではなく(そういう人はいませんが)天国に入る人は「小羊のいのちの書に名をしるされている者だけ」なのです。そこにカトリック教会と私たち改革長老教会の、さらに申しますなら、自然神学と啓示神学(人文主義的神学と福音主義神学)との、決定的な違いがあるのではないでしょうか。

 

 そこで、どうぞ今朝の御言葉の22節から24節を改めてお読みしましょう。「(22)わたしは、この都の中には聖所を見なかった。全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである。(23)都は、日や月がそれを照す必要がない。神の栄光が都を明るくし、小羊が都のあかりだからである。(24)諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの栄光をそこに携えて来る」。使徒ヨハネは壮大な「神の永遠の都」を天使に導かれて観ておりますうちに、ひとつの不思議なことに気がつきます。たぶん彼は御使に訊ねたのではないでしょうか。「この都には聖所が見当たりませんが、それはどこにありますか?」と。普通ならば聖なる都の中央に、壮大な聖所が設けられているはずだからです。御使の答えは意外なものでした。それは「この神の永遠の都には聖所がありません。なぜなら『全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所』そのものだからです」と言うのです。

 

 カール・バルトは「真の礼拝のためには、説教壇を兼ねた聖餐卓がひとつと、人数分の椅子があればそれで事足りる」と語っています。ましてや荘厳な聖所など必要ないというのです。実際にバルトは責任を委ねられたある刑務所の礼拝堂をその言葉のとおりに作らせました。ですから私たち改革長老教会の礼拝堂はとても質素です。マリアや聖人の像もありませんし、仰々しい飾りもありません。教会によってはオルガンさえない所もあります。その理由は今朝のこの22節の御言葉にあるのです。「全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所」そのものだからです。そして、その真の意味はなにかと申しますと、栄光はただ主なる神にのみ帰したてまつられるものだからです。バッハの自筆楽譜の最初のページにいつも「SDG」という文字があり、それが何を意味するのか長年の疑問でした。その秘密を解き明かしたのはベートーヴェンでした。ベートーヴェンによれば、それは“Soli Deo Grolia”(ただ神にのみ栄光あらんことを)という意味のラテン語の3文字の頭文字だったのです。

 

 そこで、このことは私たちの信仰生活においても、とても大切なことではないでしょうか。私たちはいかなる時にも“Soli Deo Grolia”を忘れない信仰生活をしたいと願っています。その願い(主にある志)こそが、私たち葉山教会の雰囲気を形作ってきたと申しても過言ではありません。「御言三昧・只管礼拝」という標語もその信仰的系譜に連なるものです。その意味は「深く真実に神の言葉に養われ、真の礼拝者として立ち続けること」だからです。そしてさらに大切なことは、22節に「全能者にして主なる神と小羊とが、その聖所なのである」と記されていることです。ここには明確に「主なる神」そしてその「小羊」(つまり十字架と復活の主イエス・キリスト)が「全能者」であられることが告げられているのです。そこで、私たちは「主なる神」が全能者であられる、ということはよくわかるのです。しかし「小羊」である十字架と復活の主イエス・キリストが「全能者」であるということについて、どれほどの正しい認識を持っているでしょうか?。

 

 西暦325年にニカイア公会議が開かれました。それは第一回目の公会議すなわち「世界教会会議」でした。そこで議題になった最も大切なことは「イエス・キリストはいかなるおかたであるか」ということでした。当代きっての大神学者の呼び声が高かったアリウスという司教は「イエス・キリストは人間の中で最も神に近づいた人である」と申しました。アリウスによれば、イエス・キリストはほとんど神に似た存在になった。だからこそ聖書はキリストを「神の子」と呼んだのだ。しかしキリストは神そのものではなく、あくまでも人間である。被造物である。被造物である人間の中で、最も神に近づくことができた人、それがイエス・キリストなのだ、そのように語ったのでした。そしてニカイア公会議は、この大神学者アリウス司教の語る「ホモイウーシオスキリスト論」(キリストは神に類似した人間である)という論説に傾きつつありました。

 

これに対して突如として異論を唱えたのが、当時若干24歳のアタナシウスという人でした。彼はエジプトのアレキサンドリアの教会で執事(ディアコノイ)をしていた人で、単なる随行員(かばん持ち)として来ていたに過ぎませんでした。つまり、会議の議員の資格すらなかったのです。しかしアタナシウスは会議の主催者であり議長であったローマ皇帝コンスタンティヌスに「どうか私に発言の機会を与えて下さい」と直訴しました。そしてコンスタンティヌスは彼に2日間だけの発言権を与えました。アタナシウスはその2日間を最大限有効に用いました。彼はなんと不眠不休で2日間語り続けたのでした。アタナシウスの反論の論点は大きく分けて次の3点でした。(1)もしもアリウス司教が語るように、キリストは神ではなく「神の最も近づいた人間である」とすれば、私たちが「キリストによって救われる」ということは、ようするに「人間によって救われる」という結論にならざるをえない。その救いは限定的であり、根拠が無く、不確かなものであり、罪を贖うものとはなりえない。(2)キリストは神に類似したもの(ホモイウーシオス)ではなく、神と同質なおかた(ホモウーシオス)である。(3)キリストは父なる神と聖霊とともに礼拝され栄光を帰したてまつられるべき存在、すなわち「神の独子」であるゆえにこそ、キリストによる救いは全ての人をその罪から贖う真の救いとなる。

 

 どうぞ今朝の24節から26節までをご覧ください。「(24)諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの栄光をそこに携えて来る。(25)都の門は、終日、閉ざされることはない。そこには夜がないからである。(26)人々は、諸国民の光栄とほまれとをそこに携えて来る」。ここにははっきりと「諸国民は都の光の中を歩き、地の王たちは、自分たちの栄光をそこに携えて来る」と記されています。地の王たちは言うのです「私に与えられたいっさいの栄光は、ただ主なる神とその小羊に献げられるべきものです」と。それは私たちも同じではないでしょうか。私たちは与えられた全生涯の歩みを通して、ただ主なる神とその小羊なる十字架と復活の主イエス・キリストにのみ栄光を帰したてまつります。人間の栄光ではなく、ただ神の栄光のみが私たちを救い、永遠の生命を与え、私たちを天国に迎え入れる力だからです。

 

 だからこそ、私たちの教会はいつも、いかなる時も、この「ただ神にのみ栄光あらんことを」という福音の神髄において揺るぎません。私たちの人生のページにも、バッハの楽譜と同じように「SDG」の文字が記されています。私たちの測り知れない罪の贖いのために、ゴルゴタにおいて十字架におかかり下さった神の御子イエス・キリストにこそ、十字架の主イエス・キリストにのみ、私たち全ての者の、そして歴史全体の、唯一の変わらぬ救いがあるからです。祈りましょう。