説 教 イザヤ書52章1−2節 ヨハネ黙示録21章15−21節
「永遠なる都」 ヨハネ黙示録講解〔72〕
2026・03・08(説教26102161)
「(15)わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、金の測りざおを持っていた。(16)都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。(17)また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。(18)城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。(19)都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、(20)第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青石、第十二は紫水晶であった。(21)十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった」。
今朝の御言葉には壮大にして荘厳な「神の都」すなわち「天のエルサレム」の姿が具体的に事細かく描かれています。今朝の説教題を「永遠なる都」といたしましたが、もちろんこれはイタリアのローマのことではなく、アウグスティヌスが語るところの「神の国」の姿を示しています。アウグスティヌスの「神の国」と申しますと、葉山教会、鎌倉教会、片瀬教会、東京の駒込教会、そして聖公会の本郷聖テモテ教会、この5つの教会を順番で会場にして、毎月一度ずつ6名ほどの牧師たちが集まって、それこそ5年ほどの年月を費やして学んでいたことがございました。出席者一同、とても大きな感動を与えられました。それは「神の国」の中でアウグスティヌスが「永遠なる都、それ神の国を除いてはありえない。神の国のみが唯一の永遠の都であり、ただそこにのみ歴史全体の救いがあるのである」と書き記していることです。
アウグスティヌスが生きた西暦5世紀のローマ帝国も、このヨハネ黙示録に出てくる小アジアの七つの教会と同様に、キリストの御身体なる教会が大きな困難と試練にさらされていた時代でした。そのような困難な時代にありましてアウグスティヌスは「神の国(永遠なる都)にのみ歴史全体の救いがある」とはっきりと語っているのです。そしてアウグスティヌスはさらに新約聖書のヘブル書11章3節を繰返し引用しています。「(3)信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではないことを、悟るのである」。
へブル書の著者について、ドイツの歴史神学の碩学アドルフ・フォン・ハルナックは「初期3世紀におけるキリスト教会の伝道と伝播」という本の中で「使徒パウロの弟子の一人でユダヤ人の女性であったプリスキラであった可能性が濃厚である」と語り、さらにこのプリスキラによってキリスト教に回心した異邦人の伝道者アポロを通して使徒ヨハネにへブル書11章3節の内容が語り伝えられた可能性を示唆しているのですが、もしそれが事実ならばなおのこと、今朝のこのヨハネ黙示録21章15節以下の御言葉は「神の国(永遠なる都)にのみ歴史全体の救いがある」ことを明確に宣べ伝えているものだと言えるでしょう。
どうぞ最初の15節と16節をご覧ください。そこにこう記されています。「(15)わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、金の測りざおを持っていた。(16)都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである」。「測りざお」というのは宮大工が用いる「指金」のことです。これは非常に貴重なものでして、奈良の法隆寺の修繕や薬師寺伽藍の再建に関わった西岡常一という宮大工の棟梁によれば「指金ひとつあればどんなに大きな建物でも造れる」のだそうです。御使(天使)が手にしていた「金の測りざお」は神の言葉です。主なる神から与えられた設計図を正しく読み取り、それを歴史的現実世界に、御言葉に即して建設してゆく務めこそが教会に委ねられている「天使的職務」なのです。
そして同時に、その「永遠なる都」の規模は「長さと幅と高さとは、いずれも同じ」でそれぞれ「一万二千丁」であったと記されています。この「一万二千丁」と申しますのはどれぐらいだと思いますか?。実は「一丁」(1スタディオン)は約190メートルのことですから、これをメートルに換算しますと2,280,000メートル(2,280キロ)の長さということになります。北海道から九州までの日本列島がすっぽり収まってしまうぐらいの壮大な都であることがわかるのです。しかもそれは「長さと幅と高さとは、いずれも同じ」であったと言われているわけでして、まさに哲学者ヘーゲルが語るところの「立体的な歴史空間」がそこに現わされているわけであります。そしてさらに大切なことは、この「神の都」(永遠なる都)は聖なる公同の使徒的なる教会の本質を意味しているのです。ルターは「キリストの御身体なる真の教会以上に壮大なものはない」と語っていますが、そこには2つの意味があります。第一に、教会は「永遠なる神の都」の歴史におけるブランチ(出張所)だからです。第二に、「永遠なる神の都」が実在するゆえに(ただその実在のゆえに)歴史全体が救われるという確信を、私たちは持つものとされているのです。
言い換えるなら「永遠なる神の都」は、十字架と復活の主イエス・キリストの御業によって、贖われ、救われ、永遠なるものとされた、歴史全体の救いの姿を先取りして現わしているのです。それはキリストの御身体なる真の教会の完成によって、この歴史的現実世界のただ中に起こる救いの成就であり、まさに先ほど引用したへブル書11章3節が語っていたように「(3)信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのではないことを、悟るのである」とございましたごとく、この目に見える歴史的現実世界を成り立たしめているもの、そしてそれを救う御力は、ただ十字架と復活の主イエス・キリストにのみあるということを明確に示しているのです。そして、これも先ほど申しましたことですが、私たち主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なる者たちに委ねられた務めは何かと申しますと、この教会の設計図が聖書と信仰告白(特にニカイア信条と1890年日本基督教会信仰の告白)によって主なる神の御手から与えられているわけですが、私たちがそれを御言葉に従って正しく忠実に読み解いて、理解して、これを「金の測りなわ」という指金を用いて、この歴史的現実世界のただ中に形成(コンストラクト)してゆくこと、そこに私たち教会の最も大きな「天使的職務」という使命があるわけです。
具体的な例をあげましょう。私たち葉山教会のこの礼拝堂を献堂して早くも26年が経ちました。あの頃、長老会は夜の8時頃まで続いたこともありました。なんのためか?まさに「神がお与えになった教会の設計図を正しく読み解くため」です。教会は十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なのですから、ただ建物を造れば「教会になる」というものではないからです。同じく、人々をおおぜい呼び集めさえすれば教会になる、というものでもないのです。私の牧師としてのその願いに、呼応してくれた長老たちが与えられたことは本当に感謝すべきことでした。しかし同時に、そのような私の(また長老会の)祈りと志を理解せず、むしろ悪意をもって、私を誹謗中傷した複数の長老もいたことは事実でした。「自分たちの意見を無視された」「自分たちを特別扱いしてくれなかった」というのが誹謗中傷の理由でした。ともすると人間の罪に由来する自己主張やわがままが噴き出す現実の中で、真の教会、キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会を形成するということは、本当に難しいわざであることを実感させられたことでした。しかし、いまの長老・執事のみなさんは、まさにその難しさの中で見事に「主の真の教会の設計図」を私と共に正しく読み取って、教会形成のわざのために邁進してくれた人たちです。
今朝の18節以下には、実にさまざまな宝石や純金のことが出て参りますね。先に学んだ21章の14節を見ますと「都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の名が書いてあった」と記されています。つまり、十二使徒たち(教会の使徒性)の輝きを現わす宝石なのです。それならば、それは教会の信仰告白のことではないでしょうか。ここに集うている私たちが本物のキリスト信仰に生きる群れとされていること、キリスト告白においてこそ常に健やかなまっすぐな群れであり続けること、それこそが様々な宝石の輝きで現わされている教会の使徒性(キリストの十二使徒伝来の信仰を生き生きと告白している群れ)であることの徴なのです。いま、私たちのこの葉山教会は、まさにそのようなキリストの御身体なる教会としてここに建てられています。そして私たちはキリスト告白に生きる群れとされています。ここに「永遠なる神の都」の輝きが現れているのです。そしてそれは、必ずこの歴史的現実世界全体を救うものになるのです。そのことを知りつつ、喜び、確信しつつ、いよいよ主の御名を讃美してゆく私たち葉山教会であり続けたいと思います。祈りましょう。