説     教           サムエル記下2210節  ヨハネ黙示録21914

                   「神の栄光と救い」 ヨハネ黙示録講解〔71

                   2026・03・01(説教26092160

 

(9)最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、『さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう』。(10)この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。(11)その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。(12)それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。(13)東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。(14)また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった」。

 

 今朝のこのヨハネ黙示録219節以下の御言葉から、黙示録はいよいよ最終的な段階へと私たちを誘って参ります。それはなによりも「小羊の妻なる花嫁」(この場合の小羊とは申すまでもなく十字架と復活の主イエス・キリストです)としての「聖都エルサレム」が「神のみもとを出て天から下って来る」その様子についての証言(テスタメント=救いの契約)であります。十字架と復活の主イエス・キリストを信じて、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なる全ての者たちに、神は永遠の救いと生命を与えて下さいます。そしてそれと同様に、この罪にまみれた歴史的現実世界を、まさにその罪の贖い主なる十字架と復活の主イエス・キリストの御業によって、歴史全体を救いの完成の喜びと幸いへと導いて下さるのです。

 

 私は神学校を出て牧師になって43年経ちますが、ヨハネ黙示録の連続講解説教をしたのがこれが2度目のことです。それで、前回の連続講解説教の時にも感じたことですが、今回よりいっそう強く感じたことは、このヨハネ黙示録は「歴史全体の救い」ということを中心的な証言(テスタメント=救いの契約)として宣べ伝えているものだということです。どういうことかと申しますと、神が御子イエスによって私たちに与えて下さる救いは「あなたという個人の救い」にとどまらないのだということです。そしてこれは、キリスト教国ではない日本という国に住む私たちにとって、なおさら大きな祝福なのではないでしょうか?。言い換えるなら、主なる神は「救われるのはキリストを信じるあなただけではないよ、他の人たちも、この国も、いや、この全世界の歴史そのものも、かならず救いの喜びの中に入れられる日が来るのだ」と宣言していて下さるわけでありまして、そのようないわば「壮大な宇宙論的な救いの契約」こそがヨハネ黙示録の主題であると言うことができるのです。

 

 なによりも、全てにまさって(私たち罪人たちのあらゆる条件や資格や“ふさわしさ”の欠如にもかかわらず)なんと驚くべきことに「聖都エルサレム」が「小羊の妻なる花嫁」として、天から、神のみもとから、この歴史的現実世界のただ中に「神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来る」のを、あなたは知る者とされるのだと言われているのです。そして11節以下をご覧になりますとこう記されていました。「(11)その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。(12)それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。(13)東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。(14)また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった」。11節にある「透明な碧玉」というのは原文を直訳すると「純度の高いラピスラズリ」です。

 

私はかつてイスラエルで、もう35年前のことですが、そのような高純度のラピスラズリを見たことがあります。それは本当に目が覚めるほど美しいものでありまして、その「神の永遠の都」である「聖都エルサレム」(天のエルサレム)は、その全体がそのような「透明な碧玉」によって出来ているというのです。しかもそれは、ただ単に「美しい」とか「荘厳だ」とかいうことではないのであって、なによりも10節に明確に記されておりましたように「神の栄光」の輝きを現わすものである、ということが大切なのです。どういうことかと申しますと、それは「神の永遠の都」である「聖都エルサレム」は「神の栄光による歴史全体の救い」をあらわすものだからです。言い換えるならば、その輝きこそは「あなたと、この歴史的現実世界を救いたもう、主イエス・キリストの救いの確かさ」をあらわすものだからです。

 

 ところで、私たちは「神の栄光が、すなわち私たち一人びとりの、そして歴史全体の救いに直結しているのだ」ということを、正しく理解している人は意外に少ないのではないでしょうか?。むしろ「神の栄光」という言葉そのものに、私たちは従来あまり強い関心や理解を示さぬまま信仰生活を続けてきたのではないでしょうか?。神の栄光とは、英語で申しますならば“Glory of God”ですけれども、ドイツ語で申しますなら“Gottes Herrlichkeit”という言葉になります。そしてこれを直訳しますと「神が(あなたの)主であられること」という意味になるわけでありまして、それが実はヨハネ黙示録が語っている「神の栄光」(δόξα του θεού)の内容的な意味なのです。つまり「神はまさに、御子なるイエス・キリストの御業によって、あなたの救い主であられ、歴史全体の救い主でもあられる」というヨハネ黙示録全体を貫く壮大な「救いの音信」が、今朝の御言葉の10節において「神の栄光」という言葉で表現されているわけです。

 

 そこで併せて、ぜひとも私たちが注目せねばなりませんのは、今朝の旧約聖書の御言葉であるサムエル記下2210節です。そこにこのようにございました「彼は天を低くして下られ、暗闇が彼の足の下にあった」。実はこれは大変な御言葉でありまして、ここに「天を低くして」とありますのは原文のヘブライ語を直訳しますなら「天を無理やり捻じ曲げて」という意味の言葉なのです。つまり、主なる神は「この歴史的現実世界を(そしてそこに生きる私たちを)救うために、まるで堅いトタン板を無理やりに捻じ曲げるようにして、天を(神の御国の栄光を)低いものとされて、地上の暗闇へと向けてそれを与えて下さった」という意味の言葉なのです。そして、このことを新約聖書の福音書、特にヨハネ福音書の御言葉で語りなおしますならば、それはヨハネ福音書の第1331節以下の御言葉になるのです。そこをお読みいたしましょう「(31)さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、『今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。(32)彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう』」。

 

 私の同級生に山岡健という人がいました。「いました」と申しますのは、彼は病気のために40代で天に召されたからです。非常に優秀な新約聖書学者であり、特にヨハネ福音書の研究において数々の優れた論文を著した人です。フェリス女学院大学でキリスト教学を教えていました。この山岡牧師の論文の中に「第四福音書における“δόξα”についての考察」というのがありまして、私はそれを戴いて読む機会があったのですが、とても心動かされましたのは、その論文の中に「第四福音書(ヨハネ福音書)においては“δόξα”は常に十字架の苦難と死との関連において出てくる言葉であり、そこには例外はない」と記されていたことでした。

 

 つまり、私たちの主イエス・キリストは、ご自分があのゴルゴタにおいて呪いの十字架におかかりになり、生命を献げ尽くして私たちの、そして全世界の罪の贖いとなって下さった、まさにその十字架による贖いの御業をさして「それこそ私の“δόξα”(栄光)なのだ」と仰って下さったおかたなのです。それこそが、先ほどのサムエル記下2210節において、主なる神が天を捻じ曲げてまで歴史的現実世界の暗黒に介入して下さった救いの出来事と完全に一致するのです。そして今朝の10節の「神の栄光」と完全に一致するのです。それは私たちの救いのための十字架の出来事をさしているのです。罪とは神に対する非常事態です。

 

それならば、まさにその非常事態にある私たちの、そして全世界の罪を贖うために、これを救って永遠の御国(聖都である天のエルサレム)へと導くために、御子イエス・キリストが、神と本質を同じくしたもうおかたが(言い換えるなら神ご自身が)それに遥かにまさる非常事態をお取り下さったのです。それがあのゴルゴタにおける十字架の出来事なのです。それこそが植村正久牧師が語るところの「痛ましき手続き」です。神の御子なるイエス・キリストの死と葬りという、想像を超えた「痛ましき手続き」究極の非常事態を通して、神は私たちに確かな、永遠の救いと生命を与えて下さいました。いま私たちはその救いの目に見える徴である、キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なる僕たちとして、いまこの歴史の中にあって「天のエルサレム」に生きる幸いと祝福を与えられているのです。祈りましょう。