説     教          エレミヤ書313133節  ヨハネ黙示録2158

                   「事すでに成れり」 ヨハネ黙示録講解〔70

                   2026・02・22(説教26082159

 

(5)すると、御座にいますかたが言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』。また言われた、『書きしるせ、これらの言葉は、信ずべきであり、まことである』。(6)そして、わたしに仰せられた。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませよう。(7)勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼は私の子となる。(8)しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

 

 主なる神は、十字架と復活の主であられる御子イエス・キリストによる、唯一永遠の罪の贖いによって、御子イエスを信ずる私たち一人びとりのみならず、全世界と歴史全体をさえ「終わり」(すなわち完成としての)救いへと導いて下さるおかたです。まさにその救いの恵みを私たちは、このヨハネ黙示録21章の1節から4節の御言葉において福音として受けました。そして、それに続く今朝の5節以下におきましては、まず5節に意味じくもございましたように「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」そして「書きしるせ、これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」この2つの大切な御言葉によって、さらにその救いの恵みの確かさが宣べ伝えられているのであります。

 

 まず、主なる神は、十字架と復活の主イエス・キリストの贖いの恵みによって「地」のみならず「天」をさえ新しくして下さるおかたです。この「天が新しくされる」とは、主イエス・キリストが御自身の御身体を裂かれ、血を流したもうて、私たちのために天の永遠の御国に「(まさにあなたのための)指定席」を用意して下さったことです。そのとき、私たちがいま生きておりますこの歴史的世界は、天の永遠の御国をめざして歩むところの「旅する神の民」とならせて戴いているのです。もはや私たちは(そして私たちの歴史全体は)目的のない放浪者などではないのでして、永遠なる神の御国をめざしつつ歩む旅人の群れとなるのです。それは17世紀イギリスの文学者ジョン・バニャン(John Bunyan)が「天路歴程」(The Pilgrim's Progress from This World to That Which Is to Come 直訳するなら「この世から来たるべき世への巡礼者の旅路」)で描いたように、この世ではなく永遠の神の御国を最終目的地とする巡礼者たちの旅路であり、言い換えるならば、キリストの御身体なる教会員として生きるということは、まさしくバニャンが語るように「この世から来たるべき世への巡礼者の旅路」を生きることなのです。

 

 次に、主なる神は「書きしるせ、これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」と言われました。この「書き記せ」とは使徒ヨハネに対して主なる神が命じたもう御言葉であり、それはこのヨハネ黙示録が私たち全ての者と歴史全体を救う福音そのものであることを明確に示しています。なぜならば「これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」からです。私は先日、横須賀にあるかなり大きな書店に本を買いに行きました。「清沢満之の宗教哲学」というタイトルの本を購入したのですが、ふと他の書棚を覗きますと、いわゆる「ハウツー本」というのでしょうか、「こうすれば、あなたの人生はもっと豊かなものになりますよ」とか「こうすれば、あなたはもっと健康に生きられますよ」とか、「こうすれば、あなたはもっとお金持ちになれますよ」とか、まあ、そういう類のことが書かれた本がずらりと並んでいました。数百種類はあったでしょう。しかし、どうか考えてみて下さい、聖書一冊だけで済むのです私たちは。他のハウツー本なんか要らないのです。ライ病患者としての絶望の淵から聖書に出会い、病床で洗礼を受け、祝福されたキリスト者としての生涯を歩んだ玉木愛子さんというかたが「聖書あり迷うことなく行く花野」という俳句を詠んでいます。私たちも同じではないでしょうか。聖書のみが「信ずべきであり、まことである」永遠の神の御言葉なのですから、私たちはこれ一冊あれば全てが足りるのです。「聖書あり迷うことなく行く花野」なのです。

 

 さて、いまともに心に留めたこの2つの大切な御言葉に促されつつ、私たちはさらに今朝の6節以下へと入って参ります。「(6)そして、わたしに仰せられた。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませよう。(7)勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼は私の子となる」。今度はいきなり「わたしに仰せられた」と、一人称単数の人称代名詞が出て参ります。直接的には使徒ヨハネのことですけれども、これは同時にここに集うている私たち一人びとりのことをさしています。私たちはカール・バルトが教会教義学の中で語っているように「生ける神の言葉から中立(Neutral)であることはできない存在」なのです。主なる神は私たちに、御言葉に対して「応えること」を求めておられるからです。この「応えること」をドイツ語ではアントヴォルテン(Antworten)と言うのですが、そこから「責任」(Verantwortligkeit)」つまり「神の言葉に対して応えること」という言葉が生まれました。これは英語の Responsibility でも同じです。言い換えるなら、もし私たちが神の御言葉への応答性を失うなら、私たちは言葉の厳密な意味において「無責任な存在」とならざるをえないのです。

 

 しかし、ここがさらに大切なことですが、それでは私たちが「神の言葉に対して応えること」とは、具体的にどういうことを意味するのでしょうか?。ここで私たちは今朝併せて拝読したエレミヤ書3133節を心に留めたいのです。「(33)しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる」。この御言葉がなぜ大切なのかと申しますと、ここに明確に「それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約」と記されているからです。この「契約」という言葉はヘブライ語で申しますなら「ベリースבְּרִית, Berit/Brit)」という言葉です。これは英語で申すなら“Covenant”つまり「神の恵みによる一方的な救いの約束」でありまして、いわゆるコントラクト(相互契約)ではありません。

 

言い換えるなら、私たちはとうてい救われるはずのない「罪人のかしら」にすぎないのですが、まさにその「救いから最も遠く離れたところにいるあなた」を救って下さるために(あなたのために永遠の神の御国に指定席を用意して下さるために)十字架と復活の主イエス・キリストがあのゴルゴタにおいて呪いの十字架におかかり下さったのです。神の永遠の御子が(神と本質を同じくしたもうおかたが)まさしくあなたを救うために「ずたぼろ」になって死んで下さった、そして、墓に葬られるおかたになって下さった、そこにこそ(ただそこにのみ)私たちの唯一の確かな救いの出来事があるのです。それだからこそ「これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」のです。そして、今朝の御言葉の6節はこうも告げています。まさにこの、十字架と復活の主イエス・キリストによる「あなたのための救いの出来事」は、神が「事すでに成れり」とされた出来事なのだということです。これはどういうことかと申しますと「あなたの救いは、私が既になしとげたのだから、あなたは安心していなさい。心を高く上げて、信仰の道を歩むあなたになりなさい」ということなのです。

 

 「あなたの救いは、私が既になしとげたのだから、あなたは安心していなさい。心を高く上げて、信仰の道を歩むあなたになりなさい」。このことを使徒パウロはローマ書324節においてこう語っています「(24)彼らは(あなたは)価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。この「義とされる」という言葉は、マタイ福音書では「天国」と訳されています。そしてマルコとルカの福音書では「神の国」と訳され、ヨハネ福音書では「永遠の生命」と訳されているのです。つまり、こういうことです。あなたは、自分の内にある如何なる資格や相応しさが皆無であるにもかかわらず(それでよいのだ)ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによってのみ、義とされ(救われ)、そして「天国」「神の国」に指定席を持つ人とせられ、さらには「永遠の生命」を与えられた人とされているのだ。だから、勇気を出しなさい。私の愛と祝福の内を歩む人になりなさい。そのようにはっきりと、主イエス・キリストによる贖いの恵みによって、主なる神みずからが、私たち一人びとりに告げていて下さるのです。祈りましょう。