説 教 イザヤ書65章17−18節 ヨハネ黙示録21章1−4節
「新しき天と新しき地」 ヨハネ黙示録講解〔69〕
2026・02・15(説教26072158)
「(1)わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。(2)また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。(3)また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、(4)人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」。
ここ数週間、いつもローマイヤーの話をして恐縮ですが、このヨハネ黙示録のたいへん優れた注解書を書いたドイツの聖書学者エルンスト・ローマイヤーは、今朝のこの21章1節から5節の御言葉について「ここには人類の歴史全体が目指すところの、究極的な目標である神の永遠の御国の幸いと祝福が宣べ伝えられている」と記しています。そのとおりではないでしょうか。思えば小アジアにあった7つの教会は、ローマ皇帝ネロによる激しい迫害の嵐に晒されていたのです。しかしこのヨハネ黙示録の著者である使徒ヨハネは、教会が十字架と復活の主イエス・キリストの真の御身体であります限り、たとえ数の上においてはどんなに小さな群れでありましょうとも、それは「人類の歴史全体が目指すところの、究極的な目標である神の永遠の御国の幸いと祝福」を宣べ伝える群れとして立てられていることを明確にしているのです。
すなわち、私たちの教会の本質的な唯一の使命は、真の礼拝を献げ、十字架と復活の主イエス・キリストの福音のみを、全ての人に宣べ伝え続けることであることを明確にしているのです。逆に申しますなら、この使命に忠実でない群れは、もはや「キリストの御身体なる教会」とは呼ばれえないのでありまして、そこで大切なことは、私たちがいつも、教会の唯一の主にして「かしら」にいましたもう十字架と復活の主イエス・キリストの真の弟子たちになっているか否かということです。かつて植村正久は「聖なる公同の教会すなわち聖徒の交わりに生きるわれらは、常に“キリストの真の弟子たるの道”を歩み続ける僕たちである」と語りました。この言葉はとても大切です。そしてまさに今朝のヨハネ黙示録第21章1節以下の御言葉は、まさにこの最も大切なことを私たちにはっきりと示しているのです。
まず1節をご覧ください。そこに「(1)わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった」とございました。使徒ヨハネは、この可視的な(歴史的な)現実世界には「終わり」があることを明確に語っているのです。天も地も海も、いつかは必ず「消え去り…なくなってしまう」ものなのです。もちろん、私たちの生物学的な意味での肉体の生命も、それこそ黙示録が語っている「第一の死」によって終末を迎えるのです。しかし、ここが大切なことですが、ギリシヤ語で(と申しますよりヨハネ黙示録において)「終わり」と訳される言葉は「目的」とか「終着点」を意味する“テロス”という言葉です。たとえば英語で終着駅のことをターミナルと申しますが、その語源にもなった言葉です。そこからさらに「(ある出来事、ある御業の)完成」という意味にもなりました。つまり、主なる神はその“テロス”(終わり)に「完成」という大きな意味を与えておられるのです。それこそ先ほど引用しましたローマイヤーの言葉で申しますなら「人類の歴史全体が目指すところの、究極的な目標である神の永遠の御国の幸いと祝福」です。
これを端的な言いかたに直しますならば「見える世界(歴史)は消え去るものであるが、見えざる神の永遠の御国は、その世界を(歴史全体を)テロス(完成)へと導くものである」ということになるでしょう。つまり「神の永遠の御国」の御支配がなければ、この目に見える歴史的現実世界に「完成」はありえないのです。そして教会はその「神の永遠の御国」の歴史における全権大使なのです。私たちの教会が神の国の福音を(十字架と復活の主イエス・キリストの福音を)正しく宣べ伝えなければ、この葉山の地は、日本は、歴史は、ついに目的を見失った浮遊物にならざるをえないのでして、その意味で私たちの教会には非常に大きな責任が神から委ねられているのです。それはこの歴史的世界の真の目的が(完成が)「神の永遠の御国の幸いと祝福」にあるという事実を宣べ伝えることです。
今朝の御言葉をお聴きになって、多くのかたが思われたことは、このヨハネ黙示録21章1節から4節の御言葉が、教会における葬儀礼拝のときに必ず読まれる御言葉であるということではないでしょうか。歴史に終末があるのと同じように、私たち個々の人間の人生にも(生命にも)死という名の終末があるのです。しかし十字架と復活の主イエス・キリストの贖いの恵みにあずかり、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に結ばれた者たちにとって、その「死という名の終末」は同時に「新しい天と新しい地」との祝福と幸いに連なる者とされることです。ここで驚くべき言葉は「新しき天」です。地が(この可視的歴史的世界が)新しくされるというのはわかるのです。では「天」が新しくされるとは、どういうことなのでしょうか?。その答えは、黙示録と同じく使徒ヨハネが著したヨハネによる福音書の14章1節以下に明確に示されています。そこをお読みしましょう。「(1)あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。(2)わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。(3)そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」。
これは、なんと恵みに満ちた御言葉でしょうか。神の永遠の御子なる主イエス・キリストは、私たちの罪の贖いのためにゴルゴタの十字架におかかり下さり、御自身の生命を献げて、私たち全ての者の罪の贖いを成し遂げて下さいました。そして死んで、墓に葬られるおかた(敢えて申すなら「墓に葬られし神」)となって下さり、3日後に復活されて、天に昇られ、聖霊によって現臨したもう救い主として、いまこの歴史のただ中で、御自身の御身体なる教会を通して、全世界に救いの御業を行っていて下さいます。まさにこの十字架と復活の主イエス・キリストが、天に(神の永遠の御国に)まさしく私たちのために(あなたのために)「場所を」(これは直訳すれば「あなたのための指定席を」という意味の言葉です)用意して下さった。本来ならば、罪人のかしらなる私たちには、神の永遠の御国に指定席などありえませんでした。天国には縁も所縁もない者にすぎませんでした。しかしまさにその「縁も所縁もない」私たちのために、十字架と復活の主イエス・キリストは、その確かな贖いの恵みによって「神の永遠の御国に」指定席を用意して下さった。「これはあなたのための指定席だよ」とはっきりと告げて下さった。まさにその贖いの恵みこそが「新しい天」という言葉によって現わされている大いなる救いの出来事なのです。
実は私は、礼拝予定表にもう書いてしまったものですから、そのとおりに説教のわざを進めて参りますけれども、少し後悔していることがあります。それは、今朝のこのヨハネ黙示録21章1節から4節の御言葉は、実は3回ぐらいに分けて説教をするべきだったということです。それほど豊かな内容を持っている御言葉なのです。しかし、私は同時に、思い直しました。全く同じことは、この黙示録の全ての御言葉についても言えるのではないか。ヨハネ黙示録のどの御言葉を取ってみても、とても1度や2度の説教では語り尽くせないほどの豊かな福音の富が(救いの恵みが)宣べ伝えられているのではないか。そういうことを改めて思わされまして、みずからの説教の至らなさ(力不足)と同時に、「いや、やはりここは1度の説教で良いのだ、来週の礼拝では次の御言葉に進むべきだ」とも思わされたのでした。
たぶん使徒ヨハネも(ヨハネはエーゲ海のパトモス島の洞窟の中でこれを書いたのですが)書いても書いてもなお足りない、という思いでいたことでしょう。しかし神はヨハネに多くの時間をお与えにならなかった。そうではなくて「私が僕である天使を通じてあなたに告げたことを、そのままに、あるがままに、全ての人に宣べ伝えなさい」とお語りになられたのです。それこそが説教者の(牧師たる者の)務めだからです。講釈を垂れることではなく、僕として忠実に宣べ伝えることが大切なのです。それこそが主の御身体なる教会の務めだからです。
3節と4節を心に留めて終わりましょう。「(3)また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、(4)人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』」。ここにも「先のものが、すでに過ぎ去ったからである」とございます。主なる神は御子イエス・キリストの十字架による贖いの恵みによって、この歴史的世界全体を「過ぎ去りゆく」ものとせられ、祝福された幸いな「完成」へと(神の永遠の御国へと)導いて下さるのです。これは十字架の主イエス・キリストによる約束ですから、これ以上に確かな救いの恵みはないのです。祈りましょう。