説 教 イザヤ書4章2−4節 ヨハネ黙示録20章11−15節
「即ち生命の書なり」 ヨハネ黙示録講解〔68〕
2026・02・08(説教26062157)
「(11)また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。(12)また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。(13)海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。(14)それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。(15)このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた」。
使徒ヨハネは天使に導かれて、今度は「大きな白い御座」と「そこにいますかた」とを見たのでした。今朝のヨハネ黙示録20章11節はこのことをさりげなく記していますが、これは天の御座にいましたもう主なる神の御姿を仰ぎ見たことでありまして、罪人なる人間にはとうてい許されないことでした。それならば、罪人なる私たち人間に決して許されないこと(不可能なこと)が実現しているのですから、それはただ、主なる神の憐れみと恵みとによることです。ここには記されていませんが、使徒ヨハネは大きな感謝と恐れの念を抱いたのではなかったでしょうか。
このヨハネ黙示録のたいへん優れた注解書を書いたドイツの神学者エルンスト・ローマイヤーはこの部分で「神の栄光の御姿を仰ぎ見ること、そこに私たち全ての者の救いそのものがあることを知らねばならない」(Wir müssen die Herrlichkeit Gottes betrachten und erkennen, dass darin die Erlösung für uns alle liegt.)と語っています。ここでローマイヤーが「神の栄光の御姿」と語っている言葉はドイツ語で“Herrlichkeit Gottes”直訳しますと「神があなたの主であられること」です。主なる神が私たちの(あなたの)主にいましたもうこと、これ以上に確かな救いの恵みは無いのです。そして、まさにこの確かな救いの恵みのもとでこそ、続く12節の御言葉が私たち一人びとりに読み上げられています。すなわち「(12) また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」とあることです。
鎌倉の建長寺の近くに円応寺という小さな禅寺があります。大きな閻魔大王の像が祀られていることで有名な寺です。なぜいきなりこんなことを話したかと申しますと、私たち日本人はとかく、今朝の12節のような聖書の御言葉を、あたかも閻魔大王の前に引き出された死人たちのような出来事として読みやすい。たしかにこの12節には「死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた」とあるのですから、なんとなく地獄の入口で閻魔の審きを受けている衆生の姿と似ていなくもないわけですね。しかしもちろん、それは全く当てはまらないのです。決定的な違いがあるのです。それを明らかにしているのが12節の中にある「これはいのちの書であった」という御言葉です。文語訳聖書では「即ち生命の書なり」と訳されています。この文語訳のほうが原文のヘブライ語の意味をより正しく伝えています。
「即ち生命の書なり」この御言葉はいったい、どのような福音を私たちに宣べ伝えているのでしょうか?。ここで要点となりますのは「即ち」と訳されたヘブライ語です。これを直訳いたしますと「まさにあなたのための」という意味の言葉なのです。つまり「即ち生命の書なり」とは「まさにあなたのために書かれた生命の書である」という意味なのです。言い換えるなら、こういうことです、私たちは全て例外なく、主なる神の御前に滅びるべき罪人なのです。一人の例外もありません。使徒パウロがローマ書の3章10節で語っているように「義人なし、一人だになし」なのです。これは「自分自身の力や能力や資格や修行によって救われる人間は一人もいない」という意味です。たとえどんなに大きな素晴らしい力や能力があっても、また、たとえどんなにたしかな資格があっても、また、たとえどんなに厳しい修行をしてきたとしても、そのようなものは私たちの救いには何の意味も持ちえないのです。
それこそカール・バルトが教会教義学の中で語っているように「私たちは罪と死というマイナス符号がついた方程式のような存在」なのでありまして、方程式の解がどんなに大きくなったとしても、それはその前についている「罪と死」というマイナス符号のゆえに「滅びの子」でしかありえない存在なのです。そこで、いまバルトの名が出ましたから、そのままバルトの言葉で引用しますけれども、まさしくその「罪と死というマイナス符号がついた方程式のような存在」でしかありえない私たちを救い、永遠の生命を与え、御国の民とならせて下さるために、その「罪と死というマイナス符号」をたったお一人で引き受けて、取り払って、プラスへと変えて下さった唯一のおかたがおられるのです。それこそ、十字架と復活の主イエス・キリストであります。
神の永遠の御子なる主イエス・キリストのみが、あのゴルゴタの丘の上で、私たち全ての者の救いのために、呪いの十字架を担って下さり、十字架の上で文字どおり「ずたぼろになって」死んで下さった唯一の救い主なのです。十字架の主イエス・キリストのみが、私たち人間存在に重くのしかかっていた「罪と死」というマイナス符号を取り除くために、御自身の生命を献げ抜いて下さった唯一の救い主なのです。以前も少しお話を致しましたが、バルトはここで「マイナスのマイナスはプラスである」という整数論の話をしています。例えて言うなら、いまここに立っている私が後ろを向いて一歩後ろに下がったなら、それは一歩前に進んだことになるわけです。まさに「マイナスのマイナスはプラス」になるのです。それと同じように、十字架の主イエス・キリストは、御自身の十字架上の死というマイナスによって「罪と死」という私たちのマイナス符号をプラス(すなわち救いと永遠の生命)へと変えて下さった唯一の救い主なのです。
続く14節以下を心に留めましょう。「(14)