説     教                詩篇8717節  ヨハネ黙示録20710

                    「聖徒たちの陣営」 ヨハネ黙示録講解〔67

                   2026・02・01(説教26052156

 

(7)千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。(8)そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。(9)彼らは地上の広いところに上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした。(10)そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである」。

 

 いよいよ千年王国(神のミレニアム)が終わりの時を迎えました。その終わりとは同時に、新しい世界の救いの出来事の始まりです。ところが、それが許せないサタン(悪魔)は、最後の抵抗を試みようとするのです。もともと千年王国が定められたのは、サタンにも悔改めの機会が与えられたことでした。主なる神はサタンにさえ悔改めを求めたもうたのです。それなのに(まあ当然と言えば当然の成り行きですが)サタンは少しも悔改めようとしなかった。それが証拠に、千年王国が終って、サタンが捕らわれていた獄から解放されますと、たちまち活動を再開するのです。すなわち今朝の8節にございましたように「出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集」したのでした。その数は「海の砂のように多い」と記されています。まさしく「浜の真砂のごとき」夥しいゴグとマゴグの軍勢が、主なる神に逆らって最後の抵抗を試みようとしたのでした。

 

 まず私たちが注目したいのはゴグとマゴグ(גּוֹג וּמָגוֹג)とはなにか?ということです。これはもともと旧約聖書のエゼキエル書38章に出てくる人の役職の名称です。新共同訳聖書では「総首長」と訳されています。どちらかと言えば文民ではなく軍人系の役職です。イスラム教のコーランの中にも出てくるそうです。本来はゴグもマゴグも、神の御言葉に従って外敵を防ぎ国家の治安を守る務め(軍事系の役職)なのですが、サタンはその彼らを「惑わし」て「戦いのために召集」し、しかもその数は「海の砂のように多い」と言われているわけです。そこで、ここで「海の砂のように多い」という言葉にも注目して戴きたいのですが、これは文字どおり「数限りない」という意味合いの表現ですが、先日、私はある天文学関係の本を読んでいまして、面白いことを学ばせて戴きました。それはなにかと言いますと、この宇宙には地球上にある全ての海の砂よりも遥かに多い星雲(銀河)が存在するというのです。

 

 これは、とても驚くべきことだと思いました。宇宙全体にある星の数が「海の砂よりも多い」というのではないのです。ひとつの星雲(銀河)の中には数千億から数十兆以上の星が(恒星が)存在するのです。その星の巨大な集合体である星雲の数が地球上にある全ての海の砂よりも遥かに多いというのです。私は牧師ですから、これを読んでひとつの印象を抱きました。それはまさに今朝の御言葉と関わってくることですが、たとえサタンによって惑わされたゴグとマゴグの数が「浜の真砂のごとき」数知れぬものであったとしても、主なる神が創造され、統治したまい、究極の救いへと導いておられるこの可視的世界は(そしてこの歴史全体は)そのようなゴグやマゴグよりも遥かに多い救いの恵みの御業によって護られ、支えられ、導かれているのだということです。

 

 私の趣味のひとつに植物学の研究というのがあるのですが、植物を観ていて本当に面白いというか、素晴らしいと感じさせられることのひとつは、どんなに小さな植物の断片にも宇宙を感じさせるほどの精密で壮大な組織が宿っているということです。いつも20倍のルーペを愛用しています。また、3年前に病床洗礼を受けて天に召された雨宮義弘さんから光学顕微鏡の正しい扱いかたを学びまして、いろいろな植物の葉や茎の組織を顕微鏡で観察しているわけですが、そのどれを見てもそこには宇宙を感じさせるほどの精密で壮大な組織があるのですね。ということは、これほどの極小世界(ミクロの世界)にさえ神は測り知れない真善美を与えておられる。それならば、この世界は究極的に神の統治したもう世界である。神の救いの御計画が必ず実現する歴史的世界であるということです。「浜の真砂のごときゴグもマゴグもなど恐るべし」なのです。

 

 なによりも主なる神は、私たち全ての者の救いのために、そしてこの歴史的現実世界の救いのために、御子イエス・キリストの十字架と復活によって、決定的な救いの御業を現わして下さったかたなのです。19世紀スコットランドの神学者P.T.フォーサイスの言葉で申しますなら「十字架の決定性こそ、私たちの、そしてこの歴史的世界そのものの救いの決定性」(The criciality of the cross is the criciality of our salvation and of the historical world itself.)なのです。そこで、私たちはいよいよ今朝のヨハネ黙示録の御言葉の本題へと入って参りますが、まさにフォーサイスの語る「十字架の決定性」の内実は何かと言うことです。それは私たちに何を示しているのかということが大切なのです。それを今朝の御言葉の「聖徒たちの陣営」という言葉があらわしているのです。この「陣営」と申しますのは英語で申しますなら“Base”です。基地です。基地というのは、そこにいつも立ち戻り、立ち帰って、新しい力と勇気を得て、再び信仰の良き戦いへと遣わされる場所です。つまりそれは私たちの教会のことなのです。

 

そしてこの「聖徒たち」とは十字架と復活の主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に連なる私たちのことをさしています。先週の礼拝後に「改革長老教会のTULIP」という主題で大切な学びの時を持つことができましたけれども、あのTULIPの最後のPは“Perseverance of the Saints”(聖徒の堅忍)です。なぜ、私たちが「聖徒=Saints」と呼ばれるのか?。その唯一の理由は、十字架の決定性にあるのです。私たちは聖なる者ではありえません。罪人のかしらなる存在にすぎません。しかし、その罪人のかしらなる私たち(救いの可能性など全く無かったはずの私たち)を、その可能性なきが故にこそ救って、永遠の生命を与えて下さったおかたこそ、十字架と復活の主イエス・キリストなのです。そこに(十字架と復活の主イエス・キリストの救いの確かさに)十字架の決定性があるのです。言い換えるなら「聖徒たちの陣営」もそれと同様です。私たちがいくら力強く一致結束してサタンの攻撃に立ち向かおうとも、本来的に(本質的に)私たちは罪人のかしらなのですから、勝てるはずがないのです。むしろ連戦連敗の私たちであるほかはない。私たち自身の中には微塵も、救いの可能性というものは無いからです。だから、私たちが「聖徒=Saints」と呼ばれる唯一の理由は、ただ十字架と復活の主イエス・キリストによる救いの確かさなのです。十字架の決定性のみが私たちの救いの唯一絶対の根拠なのです。

 

 9節と10節を改めて心に留めましょう。「(9)彼らは地上の広いところに上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽くした。(10)そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである」。ここに記されていることは「聖徒たちの陣営」に属する者たち(キリストに贖われて聖徒とされた神の僕たち)が、十字架と復活の主イエス・キリストの「十字架の決定性」により、いかに絶大な勝利を約束されているかということです。サタン(悪魔)でさえも「火と硫黄の池に投げ込まれる」のです。罪と死の支配が、完膚なきまでに打ち砕かれているのです。なぜなら、十字架の決定性によって、十字架と復活の主イエス・キリストが、私たち全ての者のために、決定的な勝利をおさめて下さったからです。

 

 ここでいつも申すことですけれども、カール・バルトの言葉で申しますなら「総大将であられる十字架の主イエス・キリストは、既に絶大な勝利をおさめておられる」のです。昔から「勇将のもと弱卒なし」と申しますが、私たちはあるがままに、ただ十字架と復活の主イエス・キリストによる絶大な勝利にあずかる僕たちとされているのです。そこに、私たちに与えられた救いの恵みの確かさがあります。それは、主イエス・キリストの十字架の確かさ(十字架の決定性の確かさ)です。だからこそ、私たち「聖徒たちの陣営」に属する者たちは、教会生活を大切にいたします。陣営を、ベースを、大切にします。私たちは絶えず主の陣営に立ち戻り、立ち帰って、そこで新たな力と慰めと勇気を得て、再び信仰の良き戦いへと遣わされてゆくのです。その私たちのことを、今朝のヨハネ黙示録の御言葉は「聖徒たちの陣営」に連なる僕たちと呼んでいるのです。祈りましょう。