説 教 ダニエル書7章11−14節 ヨハネ黙示録19章17−21節
「主が歩まれし道」 ヨハネ黙示録講解〔65〕
2026・01・18(説教26032154)
「(17)また見ていると、ひとりの御使が太陽の中に立っていた。彼は、中空を飛んでいるすべての鳥にむかって、大声で叫んだ、『さあ、神の大宴会に集まってこい。(18)そして、王たちの肉、将軍の肉、勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉をくらえ』。(19)なお見ていると、獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。(20)しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。(21)それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた」。
今朝の御言葉にはなんとも形容しがたいほど「おどろおどろしい=恐ろしく正視に耐えない」出来事が書き連ねられています。まず、ひとりの御使(天使)が「太陽の中に」立って叫んで言いますには、すべての鳥たち(これはハゲタカのような猛禽であります)に向かって「さあ、神の大宴会に集まってこい」と申しまして、ローマ皇帝ネロとその軍隊(つまり小アジアにある7つの諸教会を迫害していた者たち)の肉を、その鳥たちに与えたというのです。さらに19節以下を見ますと「獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢(この馬とは11節に出てくる白馬のことで、それに乗っているかたとは十字架と復活の主イエス・キリストのことです)とに対して、戦いをいどんだ」というのです。しかしもちろん、20節以下にありますように「獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた」のでした。
そこで、これらの御言葉は、いったい何を私たちに告げているのでしょうか?。先ほど、これらの御言葉は「おどろおどろしい」出来事を語っていると申しました。しかし、それならば、その「おどろおどろしさ」の正体は、主なる神の恵みの御支配に歯向かおうとする悪魔の闇の支配の「おどろおどろしさ」なのではないでしょうか。言い換えるならば、この歴史的現実世界(私たちが生きておりますこの現実世界)は、主なる神が恵みと永遠の摂理とをもって統治しておられる世界なのですけれども、その反面、なおもそこには悪魔の闇の支配が残っている、そしてその闇の支配の力が私たちを脅かしていることも事実なのではないでしょうか。例えて申しますならば、光が強く当たれば、そこには暗い影も際立つのと同じでありましょう。神の恵みの御支配が現わされるところ、そこには暗い闇の支配(悪魔の支配)もまた現れるのです。
それならば、大切なことは、私たちのこの教会は(主イエス・キリストのみを唯一のかしらとする、主の御身体なる、聖なる公同の使徒的教会は)そのような歴史的現実世界のただ中にありまして、いつも明確に、ただ主なる神にのみお仕えする群れであり続けることが大切なことなのです。なぜかと申しますと、それこそこのヨハネ黙示録の全体が語り告げていることですが、この世界を世界たらしめている本質は(世界の真の構成原理は)ただ十字架と復活の主イエス・キリストによる、神の永遠の恵みの御支配にあるのでありまして、それに歯向かう悪魔の支配(闇の支配)は既に「天のハルマゲドン」(天における最終決戦)に敗北したからです。神の恵みのみが永遠に勝利した、そのような世界に私たちは存在しているわけでありまして、だからこそ悪魔の支配は(たとえそれがどんなに猛威を振るいましょうとも)すでに滅ぼされた闇の支配の幻影にすぎない、この世界の本質(ウーシア)は主なる神の永遠の恵みと摂理にあるのだ。それがヨハネ黙示録が明確に告げている福音なのです。
実は、今朝の説教題を「主が歩まれし道」といたしましたのは、いま申したことと深く関わっています。これはオスカー・クルマン(Oscar Cullman)というフランスの神学者が強調していることなのですが、主イエス・キリストは「時の中心」(Zentrum der Zeit)である。これはなにを語っているかと申しますと、過去も未来も十字架と復活の主イエス・キリストによって救いへと決定づけられているということです。言い換えるならば十字架と復活の主イエス・キリストのみが「救いの中心」(Zentrum der Erlösung)である。そして、この「中心」は絶対に動くことはありえないのです。変わることはないのです。なぜなら、私たちの主イエス・キリストは、既にあのゴルゴタの丘の上で、私たち全ての者の救いのために呪いの十字架におかかり下さり、ご自身の全てを献げぬいて、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さったからです。
言い換えるならば、主イエス・キリストが「時の中心」であられるという事実は、主がすでに十字架への道を歩み抜いて下さった、そして墓に葬られた神となって下さり、三日目に墓から復活されて、父なる神のみもとにお帰りになり、聖霊によって永遠に私たちと共にいて下さるおかたである、という恵みの出来事に基づいているのです。キリストの恵みが不変であるように、この歴史的世界に与えられた救いの約束もまた不変の事実であるということです。私がよく説教の中で「歴史全体の救い」ということを申すのはそのためです。十字架と復活の主イエス・キリストのみが「時の中心」であり「歴史全体の救い主」であられるのです。
そういたしますと「主が歩まれし道」が、私たちの目にもいよいよ明らかになるのではないでしょうか?。それは「あなたというかけがえのない一人を救うために、神の永遠の御子が、時の中心になって下さった」という道なのです。実は、私はここにこそ、福音の驚くべき深みがある(全ての人を救う救済の力がある)と思っています。「あなたというかけがえのない一人を救うために、神の永遠の御子が、時の中心になって下さった」この出来事を語っているのは聖書だけです。この世界に数限りない宗教がありましょうとも、ただ聖書だけが(キリスト教のみが)「時の中心」を明確にさし示しているのです。それは十字架と復活の主イエス・キリストです。あなたというかけがえのない一人を救うために、神の永遠の御子が、ゴルゴタの丘の上で、ポンテオ・ピラトの治世に、呪いの十字架におかかり下さって、ご自分の全てを献げぬいて下さった。まさにその、神の永遠の御子の十字架の死という出来事によって、あなたというたった一人を含めて、この歴史全体が、救いへと決定づけられたのです。そして、それは決して変わることのない恵みの事実なのです。
神学校に入りますと最初に言われますのが「君たちが歩む道、それは主が歩まれし道を辿ることだ」ということです。私などはいささか天邪鬼な考えかたをするものですから「では最後は十字架か?復活と昇天はありえないけれども」なんてすぐに思ってしまうわけですけれども、もちろん人間が十字架にかかっても歴史の救いにはなりえないわけですから、その意味は「十字架と復活の主イエス・キリストの忠実な弟子になること」です。それは、伝道と教会形成と牧会にかかわる現実の戦いがどんなに厳しいものであっても、最後の勝利は十字架と復活の主イエス・キリストにあるのだから「主が歩まれし道」を歩むことを辞めてはならないのです。それが牧師たる者の歩むべき道でありましょう。
皆さんはご存じないかと思いますが、私は牧師として43年間歩んで参りました中で、たぶん他の牧師たちが経験していないような牧会上の数々の苦労を経験して参りました。それこそ使徒パウロが第二コリント書の11章16節以下に語っておりますような「試練の表」(リスト・オヴ・テンプテイション)に似たものを、私も書けと言われたら書けるかもしれないと思うほどです。その結果として鬱病に苦しむことにもなりました。思い返してみて「よくぞあのような苦しい日々を歩んで来れたものだ」と感じるほどです。しかし、だからこそ改めて確信いたしますのは、それは少しも、私という人間の力ではないということです。そうではなく、ただひとえに十字架と復活の主イエス・キリストが「時の中心」となって下さった、この私を牧師として(主の忠実な弟子として)歩ましめるために、十字架の御苦しみを経験して下さったおかたが、いつも私と共にいて下さったという事実です。
それは同時に、皆さんお一人お一人にも、同じことが言えるのではないでしょうか?。キリスト者の歩む道は「主が歩まれし道」を辿ることです。主イエス・キリストの忠実な弟子として歩むことです。しかし私たちにその道を歩ましめる力は、少しも私たち自身の中にあるのではありません。それはただ、十字架と復活の主イエス・キリストの内にある恵みの御力によることです。それ以外の何物でもありません。そして、それゆえにこそ、私たちには確かな約束が与えられています。それは「主が歩まれし道」を辿るなら、生きるなら、そこには、そこにこそ(そこにのみ)限りない祝福がある、幸いと自由と喜びがあるということです。なぜでしょうか?。十字架と復活の主イエス・キリストのみが、私たちの測り知れない滅びに(罪と死の支配に)決定的に勝利して下さった、唯一の救い主であられるからです。どうか私たちは、このかたのもとに、一致結束して、志と祈りとを合わせて、キリスト者の歩みを続けて参りたいと思います。「あなたというかけがえのない一人を救うために、神の永遠の御子が、時の中心になって下さった」からです。祈りましょう。