説     教            詩篇10514節  ルカ福音書245053

                 「キリストの昇天」 ルカ福音書講解〔220

                   2024・06・30(説教24262073)

 

 「(50)それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。(51)祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた〕(52)彼らは〔イエスを拝し〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、(53)絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」。私たち改革長老教会に連なるキリスト者たちは、他の教派の人たちからは「教理に強いキリスト者たちだ」と思われているようです。それはおそらく、そのとおりでありましょう。しかし、そのような「教理に強い」はずの私たちに、もし弱点があるとするならば、それはキリストの昇天についての教理ではないかと私は思います。

 

 ひとつの事実として、いまここに集うている皆さんにとって「キリストの昇天」の出来事が、具体的にどのような意味を持っているでしょうか?。それこそ今、お一人お一人に問いかけたい思いがいたします。しかも、今日が4年半にわたり続けて参りましたルカ福音書の連続講解説教の最後です。このルカ福音書はキリストの受肉、すなわちベツレヘムでのご降誕の出来事に始まって、ベタニヤでの昇天の出来事で終わっているのです。それは、なぜでしょうか?。主イエス・キリストの昇天の出来事は、どのような意味を持つ福音なのでしょうか?。今日は改めて、そのことをご一緒に考えたいと思うのです。

 

 私たち葉山教会に連なる者たちにとって、忘れることのできない先達のひとりに、植村正久という牧師がおります。旧日本基督教会の一番町教会(現在の富士見町教会)の牧師として、また、東京神学社(東京神学大学の前身)の校長として、日本の教会史に大きな足跡を残した人です。この植村正久牧師が、洗礼志願者試問会の時に必ず訊ねた質問がありました。それは「キリストは今、どこにおられますか?」であったそうです。改めて私も、皆さん一人びとりに問うてみたいと思います。「キリストは今、どこにおられますか?」。洗礼を受けてから何十年もたった人でも、意外にこの質問にきちんと答えられる人は少ないのではないでしょうか?。

 

 「キリストは今、どこにおられますか?」今朝の御言葉であるルカ伝2450節以下は、この問いへの明確な答えを示しています。「あなたの贖い主であられる主イエス・キリストは、あなたの、そして全世界の救いのために、昇天なさって天にお帰りになり、いま、父なる神と共におられます」と!。どうぞ改めて今朝の50節以下をご覧ください。「(50)それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。(51)祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた〕(52)彼らは〔イエスを拝し〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、(53)絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」。

 

 私たちが特に心惹かれますのは、今朝の50節と51節に二度にわたって、昇天の主イエス・キリストが弟子たちを(私たちを)祝福して下さったという事実です。すなわち、十字架と復活の主イエス・キリストは、弟子たちを(私たちを)祝福しながら天に昇られたのです。私は35年前にイスラエルに参りましたとき、主イエスの昇天なさった場所であるベタニヤの村を訪ねたことがあります。エルサレム郊外にある小さな村です。イスラエル特有の抜けるように青い空を見上げながら、そこで改めて思いましたことは、弟子たちは昇天の主イエス・キリストの祝福を受けて、どのようにふるまったかということでした。今朝の51節以下を見ますと「(51)(主イエスは)祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた〕(52)彼らは〔イエスを拝し〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、(53)絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」。と記されています。

 

 つまり弟子たちは「非常な喜びをもってエルサレムに帰り、そこで絶えず礼拝を献げていた」のです。どうしてでしょうか?。昇天の主イエス・キリストは弟子たちを(私たち一人びとりを)祝福して下さったからです。私たち一人びとりを祝福しながら天に昇られ、父なる神のもとにお帰りになったからです。だから弟子たちは、主イエスが自分たちから離れてしまった(去って行ってしまった)のだとは思いませんでした。むしろその逆でした。弟子たちはまさに、主イエスが昇天なさったからこそ、いつまでも自分たちと共にいて下さる、永遠の救い主であられることを理解したのです。信じたのです。昇天の主イエス・キリストによる祝福が、父なる神のもとから聖霊によって、いつも、いつまでも、自分たちと共に、世界と共にあることを信じたのです。だから彼らは52節にあるように「イエスを拝し、非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた」のです。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・詩篇105篇の1節以下に、このようにございました。「(1)主に感謝し、そのみ名を呼び、そのみわざをもろもろの民のなかに知らせよ。(2)主にむかって歌え、主をほめうたえ、そのすべてのくすしきみわざを語れ。(3)その聖なるみ名を誇れ。主を尋ね求める者の心を喜ばせよ。(4)主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ」。ここに「主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ」とありますね。わたしたちはどこで、どのようにして、いかなる理由で、いつも主の御顔を尋ね求めることができるのでしょうか?。さらに言うなら、私たちはいつ、どこで、十字架と復活の主イエス・キリストにお会いすることができるのでしょうか?。

 

 逆に、もしも主イエス・キリストが、昇天なさらずに、父なる神のみもとにお帰りにならずに、この地上のどこかに留まっていらしたら、どうなるでしょうか?。たとえばそれはイタリアのローマのバチカンであっても、私たちは日本から飛行機に乗ってわざわざローマまで行かなければ、十字架と復活の主イエス・キリストにお目にかかれないことになるでしょう。たとえ主イエスの祝福を受けたいと願っても、バチカンのサンピエトロ大聖堂に行かなければ、祝福を戴けないということになるでしょう。このことについて、私の恩師でもある熊野義孝先生が素晴らしいことをおっしゃいました。熊野先生は「キリスト教の本質」という著書の中で「キリスト教の特質は、この地上のどこかに本山というものを持たないことにある。もししいて私たちが本山を求めるとするなら、それは天であると言うほかはない」と語っておられます。そのとおりではないでしょうか。

 

 使徒パウロも「されど我らの国籍は天にあり」(ピリピ書3:20)と語っています。私たちの救い主なる主イエス・キリストは「もし救われたいのなら、祝福を受けたいのなら、バチカンまで来なさい、そうしたらあなたは祝福を受けられるだろう」と私たちにおっしゃるようなかたではないのです。そうではなくて、十字架と復活の主イエス・キリストは「わたしが父のみもとからあなたがたに遣わそうとしている助け主、すなわち、父のみもとから来る真理の御霊が下る時、それはわたしについて証しをするであろう(=私がいつもあなたと共にいる救い主であることを示すだろう)(ヨハネ伝15:26)とお語りになったのです。だからこそ「キリストは今、どこにおられますか?」という問いが大切なのです。

 

 私たちは今朝の御言葉によって、この問いに対する明確な答えが福音として与えられています。それは「十字架と復活の主イエス・キリストはいま、昇天の主イエス・キリストとして、父なる神と共に天におられます」という答えです。だからこそ、十字架と復活の主イエス・キリストの救いの御業は、この地上の特定の地点や時に限定されないのです。それは天において父なる神と共にあり、永遠に世を統治したもう主の御業なのですから、私たちはいつも聖霊によって現臨したもう主と共に歩む僕たちとされているのです。それこそ「我らの国籍は天にあり」なのです。

 

 十字架と復活の主イエス・キリストが、天に昇られて、昇天のキリストとなって下さって、父なる神と共におられるからこそ、私たちは救われたのです。そしてここに聖霊によって私たちの教会も建てられ、ここに連なる私たちがキリストの弟子たちとなって、新しい信仰の生活を生きる者たちとして、ここに「聖なる公同の使徒的なる教会すなわち聖徒の交わり」を形作る者たちとならせて戴き、新しい一週間の旅路へと、主と共に、主の祝福のもとを、主が再び来たりたもう日を待ち望みつつ、ともに祈りを合わせて歩む者たちとならせて戴いているのです。祈りましょう。