説    教            ゼカリヤ書99節  ルカ福音書192836

                「主がお入り用なのです」 御殿場教会にて

                  2024・06・23(説教24252072)

 

(28)イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。(29)そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、(30)言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。(31)もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」。(32)使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。(33)ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。(34)二人は、「主がお入り用なのです」と言った。(35)そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。(36)イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた」。

 

 古代の王は、外見上の威儀を権威の徴としてとても気にしました。いわゆるプロトコル(形式的な儀礼)を大切にしたのです。それは、現代のような、テレビやインターネットというような情報ツールがありませんから、いわば見た目の威厳だけが王たるものの徴だと考えられていたからです。その数多いプロトコルの中でも、特に古代の王たちがこだわったのは、即位の儀式における乗物でした。王が即位して民衆の前に姿を現すとき、威風堂々たる4頭曳き(または6頭曳き)の馬車が用いられるのが常でした。もちろん、大ぜいの家臣や従者たちを引き連れての華々しい凱旋行進でした。あの有名なパリの凱旋門は1805年にナポレオンがアウステルリッツの戦いの勝利の記念として建てさせたものです。古代イスラエルにおいても、戦勝記念の凱旋や新国王の即位は、しばしば華々しく凱旋門を建てて祝われたのです。

 

 さて、そこで、主イエスの弟子たちも主イエスのことを「このおかたこそ、イスラエルの新しい王になられるかただ」と確信しておりましたので、当然のことながら、主イエスも華々しいエルサレム入城行進をなさるに違いない、いや、そうしなければならないと、弟子たちは勝手に考えていました。そのための具体的な算段をあれやこれやと思案していたわけです。ところが肝心の主イエスはと言いますと、どうも弟子たちの思惑とは様子が違います。主イエスは今朝の29節以下にありますように「オリーブ畑と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき」弟子たちにお命じになって言われますには「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだ誰も乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。(31)もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と、こう言われたのでした。

 

これには、さすがの弟子たちも心の底から驚いたことでした。このかたはいったい何を考えているのだろうかと訝しんだことでした。しかも主イエスは「もし、だれかが、『なぜ(ロバの子を)ほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」とおっしゃったのです。つまり主イエスは「私は子ろばを、ろばの子をこそ、必要としているのだ」と明言なさったわけです。これは事実上、御自身の王としての即位と凱旋を完全に否定されたことでした。「私はイスラエルの王になるためにエルサレムに入るのではないよ」と明言なさったのです。では、なんのために主イエスはエルサレムに入られるのでしょうか?。それは今朝あわせてお読みした旧約聖書・ゼカリヤ書99節に、その答えがはっきり示されているのです。「(9)娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」。

 

ここには「娘シオン」「娘エルサレム」「神に従う者」「勝利」「高ぶらない者」という5つの大切なキーワードが出てきます。実はこれら5つの言葉の全てが、十字架のキリストのお姿を私たちにさし示しているものなのです。つまり、ここで主イエスは弟子たちに、このゼカリヤ書99節に告げられている十字架の主キリストこそ私のことなのなのだと、はっきりお語りになっておられるわけです。私がエルサレムに入るのは、イスラエルの新しい王になるためなんかではないんだ、そうではなくて、全ての人の罪の贖いのために、十字架にかかって死ぬためであると明言なさったのです。ですから「私のために子ろばを連れてきなさい」とは、明確な十字架の予告なのです。

                                                     

 そして、もうひとつ大切なことは、31節にこのように記されていることです。「(31)もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」。(私はかつてイスラエルでずいぶんたくさんのロバを見ました。それは荷物運びのためのロバです。日本にもロバが日常的に荷物運びをしている街があります。それは長崎です)。ロバは小回りが利くし力持ちで、人間にとってとても有用な家畜なのですが、なぜか古代イスラエルでは卑しい動物として蔑まれていました。たとえば「あいつはロバのような奴だ」と言えば、それは侮辱の言葉でした。しかし主イエスは、まさにその、卑しめられ、軽んじられ、軽蔑されていたロバを、しかもロバの子を、エルサレム入城の乗物としてお選びになったのです。そして弟子たちに「(31)もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」とおっしゃったのです。

 

 そこで、私たちはまさにこの「主がお入り用なのです」という言葉に、ご一緒に心を向けたいのです。いささか私ごとになりますが、ひとつの思い出話をさせて下さい。(島村亀鶴先生の逸話。誰がなにを言うたかて、イエスはん「おまえやのうてはあかんのや」言うてはる。よさこいよさこい)。私たちは人間ですから、いかに神の僕、キリストの弟子であると言えども、様々な欠点や弱さを持っているのは当然です。それは例えて言うなら、4頭曳き(または6頭曳き)の華麗な馬車の隣に、一匹のみすぼらしいロバの子がポツンと佇んでいるるようなものです。比較にも何にもなりゃあしません、較べること自体が愚かです。しかし、主イエス・キリストは、4頭立て6頭立ての壮麗な馬車などではなく、まさに子ロバにすぎない私たちを「私はあなたが必要なのだよ」とおっしゃって下さる。「おまえやのうてはあかんのや」と言って下さるおかたなのです。まさにそれが「主がお入り用なのです」という言葉なのです。私たちは、自分自身を顧みるなら、神の栄光を現すに足るものなど何ひとつないと言わざるをえない、欠け多き罪人の頭にすぎないのですけれども、まさにその、欠け多き弱き私たちを主は必要として下さる。選んで下さる。「誰がなにを言うたかて、おまえやのうてはあかんのや」とはっきりとおっしゃって下さるおかたなのです。それならば、私たちがそのような主に対してお答えすべき姿勢は何でしょうか?。それこそ主に対する全き従順に他なりません。従順に、心ひとすじに、いそいそと、余念なく、喜び勇んで、おのれを見ずに、ただ招きたもう主の御声にのみ従い、選んで下さった主の恵みにのみ寄り頼み、主の御言葉のままに、あるがままの自分をお献げするのみではないでしょうか。

 

 しかも、そのような私たちをお選び下さり「お入り用だ」とおっしゃって下さる主イエスは、預言者ゼカリヤがいみじくも語っているように、十字架の主イエス・キリストなのです。私たちの測り知れない罪を贖い、私たちをあるがままに御国の民となし、天に国籍ある者、主の僕となして下さるために、御自身の生命を献げきって下さった十字架の主イエス・キリストこそ、子ロバである私たちを「かけがえのないもの」として、まさにあなたが必要なのだ、「おまえやのうてはあかんのや」と、「主がお入り用なのです」と、はっきりおっしゃって下さる、唯一絶対の救い主なのです。

 

植村正久という旧日本基督教会の先達は、キリストの十字架について「それは我らの救いのために神がなしたもうた“痛ましき手続き”である」と語りました。十字架とは、神の外に出てしまった私たちを救うために、神ご自身が(神の独子なる主イエスが)神の外に出て、私たちを訪ね求め、私たちをかき抱くようにして贖い、救って下さった「痛ましき手続き」なのです。まことの神は、罪によって神の外に出てしまった私たちを救うために、みずから神の外に出て下さった、神ではないものになって下さった、おかたなのです。すなわち、十字架という痛ましき手続きを経て、滅びの子でしかありえなかった私たちを、御国の民となして下さり、永遠の生命を与えて下さり、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会において「聖徒の交わり」に生きる幸いと喜びを与えて下さいました。2000年の年月を経て、いまもなお十字架の主イエス・キリストは、聖霊によって現臨したまい、いつも私たちと共にいて下さり、救いの御業を現し続けていて下さるかたなのです。

 

今朝はどうぞ、この言葉を深く心に留めましょう。「主がお入り用なのです」。まさに十字架の主イエス・キリストが、あなたの唯一永遠の贖い主、救い主、慰め主にいましたもうのです。まさに十字架の主イエス・キリストが、あなたを必要としていて下さるのです。「おまえやのうてやあかんのや」と、ハッキリ告げていて下さるのです。だから、私たちは喜び勇んで、主の御声にお従いするのみです。自分を顧みず、ただ招きたもう主のみを見上げて、主と共に、主の愛と祝福の内を、信仰の道を、心を高く上げて、歩んで参りたいと思います。「主がお入り用」だからです。主があなたを、選んで下さったからです。祈りましょう。