説     教            詩篇119130節  ルカ福音書244449

                「信仰と生活の唯一の規範」 ルカ福音書講解〔219

                   2024・06・16(説教24242071)

 

 「(44)それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。(45)そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて(46)言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。(47)そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。(48)あなたがたは、これらの事の証人である。(49)見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

 

 今朝の御言葉の説教題を「信仰と生活の唯一の規範」といたしました。実はこれは、今年度(2024年度)の東海連合長老会の主題「聖書」における副題「信仰と生活の唯一の規範たる神の言葉」から取った説教題です。これを中会会議に議案として提出したのは私たち葉山教会の長老会でした。以前にも、これに類する副題はあったかもしれません。しかし私たち葉山教会の長老会は、このことはどれほど多く学んでもなお足りないほど大切なことだという認識において一致していました。「信仰と生活の唯一の規範たる神の言葉」今朝はこのことについて、ご一緒に御言葉から聴いてまいりたいと思います。

 

 まず今朝の御言葉の44節を見ますと、復活の主イエス・キリストが、愛する弟子たちに「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」と仰せになったことが記されています。どうか考えてみて下さい、まことの唯一の神は天地万物の創造主、つまり歴史の唯一の主にいましたもうのです。それならば、神がお語りになった御言葉は「必ずことごとく成就する」のは当然のことなのです。しかも、主イエスはこのことについて「モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」とお語りになっておられるのです。

 

この「わたしについて書いてあること」とは何でしょうか?。それこそ主イエス・キリストが聖霊によって歴史のただ中に現わして下さる救いの御業についてではないでしょうか。先週の火曜日は横浜指路教会において「第49回全国連合長老会会議」が行われました。私は少し早く(1時間ほど前に)着いてしまったものですから、多羅長老が来るのを待っている間、パウル・アルトハウスが書いた「マルティン・ルターの神学」(Paul Althaus, Die Theologie Martin Luthers)というドイツ語の本を読んでいました。ちょうど読み進んで3分の1ぐらいのところに「旧約聖書が証しするイエス・キリストにつてのルターの神学的考察」という項目がありまして、私は多羅長老が来て隣に座っても気が付かないほど熱中して、それに読みふけっていました。ルターによれば(これがルターという人の凄いところなのですけれども)「旧約聖書は全てキリストのみを証しする福音書である」というのです。ここまではっきりと言い切っている人は他にはいないのではないかと思います。「旧約聖書は全てキリストのみを証しする福音書である」。

 

 どういうことかと申しますと、私たちは福音書と聞きますと、それはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの福音書のことだと考えます。逆に言うなら、それ以外は福音書ではないと私たちは思っています。しかしルターは、聖書は全て、新約はもちろん、旧約聖書も「全てキリストのみを証しする福音書である」と言い切っているのです。それは、聖書は創世記からヨハネ黙示録まで、その66巻すべてが十字架と復活の主イエス・キリストのみを証ししている「福音書」に他ならないからです。ですからルター神学を専門に学んだ私も、聖書のどの御言葉を説教する場合でも、十字架と復活の主イエス・キリストのみを指し示す福音書として皆さんに語ります。「今日は旧約聖書の説教ですから、モーセや預言者や詩篇は出てきても、キリストは出てきません」ということはありえないのです。改めて今朝の44節を心に留めましょう。「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」

 

 そして、さらに続く45節以下をご覧ください。「(45)そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて(46)言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。(47)そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。(48)あなたがたは、これらの事の証人である。(49)見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

 

 主イエスがおられた時代、聖書というのは旧約聖書だけでした。新約聖書(イエス・キリストによる新しい救いの契約の書)はまだ無かったのです。というよりも、十字架と復活の主イエス・キリストご自身が新約そのものでした。この事実はいまも変わってはいません。それならば、今朝のこの御言葉において十字架と復活の主イエス・キリストは愛する弟子たちに(愛する私たち一人びとりに)まさに45節にありますように「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」おっしゃいますには、46節以下の御言葉です。それは、十字架と復活の主イエス・キリストが、私たちの、そして全世界と歴史そのものの救いのために、どのような救いの御業を現わして下さったかです。すなわち、それこそ福音書の内容そのものではないでしょうか。そしてさらに大切なことは、今朝の48節と49節にこのように告げられていることです。「(48)あなたがたは、これらの事の証人である。(49)見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

 

 まず48節に主イエスは「あなたがたは、これらの事の証人である」とおっしゃいます。ここに集うている私たちすべての者たちのことです。この「これらの事」とは福音書の内容そのものです。十字架と復活の主イエス・キリストが、私たちと全世界、そして歴史全体の救いのために、現わして下さったすべての救いの御業のことです。それについては私たちの誰一人といえども無関係ではないのです。私たち全ての者が、いま「キリストによる救いにあずかった者たち」としてここに集うているのです。

 

 次に主がはっきりと語られたのは「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」との御言葉です。聖霊が与えられるまで、そして、上から力が与えられるまで「あなたがたは都にとどまっていなさい」。この「都」とは2つの意味を持っています。教会と神の言葉です。あなたは主の御身体なる教会にしっかりと留まっていなさい。そして、神の言葉に留まり続けていなさい。そのように十字架と復活の主イエス・キリストはいま、私たち一人びとりにはっきりと語っておられるのです。