説     教             詩篇3116節  ルカ福音書243743

                  「これ我なり」 ルカ福音書講解〔218

                   2024・06・09(説教24232070)

 

 「(37)彼らは恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った。(38)そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。(39)わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔(40)こう言って、手と足とをお見せになった。〕(41)彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。(42)彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、(43)イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」。

 

 十字架と復活の主イエス・キリストはいつも、私たちの恐れやとまどいや疑いのただ中にご自身の御姿を示して下さり、救いの御業を現わして下さるおかたです。この日もそうでした。今朝の御言葉の最初の37節を見ますと「彼ら(弟子たち)は恐れ驚いて、霊を見ているのだと思った」と記されています。つまり、主イエスの弟子たちでさえも、復活の主イエス・キリストのことを幽霊だと思い違いをしていた。十字架において確かに死なれ、墓に葬られた主イエスが、どうしてここにいらっしゃるのだろう?。これは幽霊に違いないと、彼ら弟子たちは思ったことでした。

 

 まさにそのような弟子たちの恐れ、戸惑い、疑いのただ中に、十字架と復活の主イエス・キリストは救いの御業を現わして下さいます。すなわち、復活の主イエス・キリストみずから、弟子たちに親しく御声をかけて下さるのです。どうぞ38節以下をご覧ください。「(38) そこでイエスが言われた、「なぜおじ惑っているのか。どうして心に疑いを起すのか。(39)わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ」。〔(40)こう言って、手と足とをお見せになった。〕

 

 ここに、特に39節に「まさしくわたしなのだ」という御言葉が出てきます。文語訳では「これ我なり」と訳されます。また、ルターが1545年に訳したドイツ語の聖書では“Sehet meine Haende und meine Fuese, ich bin`s selber”という訳になっています。直訳するなら「見てごらんなさい、私の両手と両足を。まさしくこれこそ私ではないか」です。そこで、どうぞ思い起こして下さい(この時の主の弟子たちと同じように、現在の私たちもこの事実に心を留めましょう)復活の主イエス・キリストは同時に、十字架の主イエス・キリストであられるのです。それならば、主イエスの両手両足にはなにがあるのでしょうか?。私たちは主イエスの両手両足になにを見るのでしょうか?。それこそまさしく十字架における釘跡を見るのではないか。これはもう誤魔化しようがないのです。たしかにこのおかたこそ、私たちすべての者のためにゴルゴタの十字架において死にたまい、三日の後に復活して下さった主イエス・キリストなのです。これは否定のしようがないキリストの証拠なのです。

 

 だからこそ主イエスは、もう一度ドイツ語で申しますが“Sehet meine Haende und meine Fuese, ich bin`s selber(見てごらんなさい、私の両手と両足を。まさしくこれこそ私ではないか)とはっきりと語って下さった。さらに申しますなら、ルターはここでずいぶん泥臭い訳をしています。わざわざ主イエスに「私の両手そして私の両足を(見なさい)」と言わせていることです。“meine=私の”という人称代名詞が重なって出てくるあたり、これはずいぶん洗練されていない、野暮ったい、泥臭いドイツ語だと言わねばなりません。(私などはすぐに、宮崎豊文先生が「さけび」でしばしば語られた「諸君はすべからく泥臭いキリスト者であれ!」という言葉を思い起こします)。その泥臭さとはいったい何かと申しますと、十字架の主イエス・キリストの釘跡(御傷)を徹底的に見つめ続け、こだわり続ける泥臭さです。

 

 ここでこそ、私たち一人びとりが問われているのではないでしょうか。「あなたは十字架の主の両手両足の釘跡(御傷)にこだわり続ける泥臭いキリスト者であり続けているか?」と。私たちはともするとその正反対に、十字架のキリストではなく、自分が他人からどう見えるかだけにこだわる、いわゆる(洗練された)文化的(装飾的)キリスト者になってしまっていることはないでしょうか?。私はときどき思うことがあるのです。もしも私たちが「この人のこの傷跡は、私の生命を救うために刻まれたあの時の傷跡だ」とはっきりとわかる、そういう傷跡を身に帯びている人がいたなら、おそらく一生涯、その人に感謝し続けるでしょう。少なくともその人に対して不義理なことや失礼なことはしない(できない)と思うのです。しかし私たちは十字架のキリストに対しては平気で不義理なこと、失礼なことをしているとすれば(たとえばある日を境にふっつりと教会に来なくなってしまうようなことを平気でしているとすれば)それは、十字架の主の両手両足の御傷ではなく、自分だけが中心の文化的(装飾的)キリスト者(十字架なしのキリスト者)になってしまっているからではないでしょうか。

 

 だからこそ、私たちはいつも宮崎豊文先生の言葉に立ち返らなければなりません「諸君はすべからく泥臭いキリスト者であれ!」。否、なによりも今朝の主イエスご自身の御声にいつも立ち帰って生きる私たちであらねばなりません。それこそ「これ我なり」との主の御声です。ルター訳で申しますなら“ich bin`s selber=まさしくこれこそ私ではないか”です。これも泥臭い言葉ですよ。直訳するなら「まさしくこれこそ私であり、まさにそれが私なのだ」と主は私たちに告げておられるのです。この私が、あなたのために、あなたを滅びから救い出し、永遠の生命を与え、御国の民となすために、十字架にかかって死に、墓に葬られ、三日目に復活したのだと、はっきりと主は語り告げていて下さるのです。だからこの言葉もずいぶん泥臭いのです。まさにキリストの恵みの満ち溢れている泥臭さです。

 

そこで、どうぞ今朝の41節以下をご覧ください。「(41)彼らは喜びのあまり、まだ信じられないで不思議に思っていると、イエスが「ここに何か食物があるか」と言われた。(42)彼らが焼いた魚の一きれをさしあげると、(43)イエスはそれを取って、みんなの前で食べられた」。パスカル(Blaise Pascal 1623-1662)はこの御言葉がとても好きだったようです。パンセを始めとしていろいろな本の中で引用しています。なによりも私たちが心惹かれますことは、主イエスみずから「ここに何か食物があるか?」と弟子たちにお訊き下さったことではないでしょうか。幸いなことに、そこに焼いた魚がありました。弟子たちが早速、焼き魚の一切れを主イエスに差し上げますと、43節にありますように、主イエスは「それを取って、みんなの前で食べられた」のでした。これは、十字架と復活の主イエス・キリストが、紛れもなく御身体をもって復活されたことの確かな証拠をお示しになったのです。

 

 どういうことかと申しますと、それは私たちの救いの真実性にかかわることなのです。私たちは「心は救われたけれど、肉体は救われない」のではないのです。十字架と復活の主イエス・キリストは、まさに御身体をもって御言葉を弟子たちに語りたまい、救いの御業をなしたもうおかたです。それならば、主は、私たちの身体も、心も、魂も、つまり私たちの全人格、全存在を救って下さる真の救い主なのです。同じように、十字架と復活の主イエス・キリストは、世界の身体性であるところの歴史全体をも救いへと導いて下さるおかたです。まさに十字架と復活の主イエス・キリストのみが、歴史的現実的世界の唯一の真の救い主であられるのです。

 

 今日、あわせてお読みした詩篇3116節を心に留めて終わりましょう。「(主よ)御顔を僕の上に輝かせ、慈しみをもって私をお救い下さい」。私たちはこのように祈らざるをえない存在ですが、その私たちの祈り求めを遥かに超えて、十字架と復活の主イエス・キリスト御自身が「これ我なり」と、御自身の御姿を、そして十字架でお受けになった両手両足の御傷を、私たちに現わし示して下さるのです。私たちの生きる限り、否、死を超えてまでも、十字架と復活の主イエス・キリストは、私たちと共におられ、私たちの全存在を、御自身の十字架の御傷をもって贖い、救い、永遠の生命を与えて下さる救い主なのです。その同じ十字架と復活の主イエス・キリストが、この世界を、そして歴史全体をも、必ず救いの完成へと導いて下さるのです。永遠の平和と幸いを、この歴史的現実的世界に、与えて下さるのです。祈りましょう。