説     教        出エジプト記356節  ルカ福音書243336

                  「主の現臨と祝福」 ルカ福音書講解〔217

                   2024・06・02(説教24222069)

 

 「(33)そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、(34)「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。(35)そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。(36)こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕」

 

 エマオの村に行く途中の旅路で復活の主イエスに出会い、主イエスを強いて引き止めて止まった宿屋の夕食の席で、パンをお裂きになり配りたもうたその所作で、まさにそのおかたが復活の主イエス・キリストであるとわかった2人の弟子たち。彼らは「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」と、復活の主にお会いした喜びを語り合いつつ、仲間の弟子たちが待つエルサレムに戻って参りました。すると、驚いたことに、復活の主がもう既に先回りをしておられたのです。すなわち今朝の33節にございますように「十一弟子とその仲間が集まっていて、(34)「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた」のでした。

 

 そこで、どうぞ続く35節をご覧ください。「(35)そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した」のです。まさに主の弟子たちは喜びに沸き立ったことでした。次から次へと、私も復活の主にお会いした、私も、私もだと、次から次へと復活の主イエス・キリストにお会いしたという証言が語られたのです。「なんだ、お前も、あなたも、あなたも、復活の主にお会いしたのか」と、次から次へと喜びに満ちた証言がなされてゆく中で、その場においてさらに驚くべきことが起こるのです。どうぞ36節をご覧ください。「(36)こう話していると、イエスが彼らの中にお立ちになった。〔そして「やすかれ」と言われた。〕」

 

 礼拝において神の言葉が正しく宣べ伝えられるとき、そこに、聖霊によって十字架と復活の主イエス・キリスト御自身が現臨していて下さることを、私たちはいつも正しくわきまえ知る者たちとされているでしょうか?。ブリンガーというルターと親しかった宗教改革者は「神の言葉の説教はすなわち神の言葉であり、そこに聖霊によって十字架と復活の主イエス・キリストが現臨しておられる」と語りました。それはキリストの御身体なる教会が決して忘れてはならないことです。

 

十字架と復活の主イエス・キリストによって救いの喜びを与えられた僕たち、まさに「主の弟子」とならせて戴いた私たちが、ともに集い、主の御言葉を聴き、真の礼拝を献げるところ、そこに十字架と復活の主イエス・キリスト御自身が現臨して下さるのです。そこで、この「復活の主の現臨」をもし英語で申しますなら“Real Presence of the Risen Lord”となるのです。ただの「プレゼンス」ではなく「リアル プレゼンス」なのです。これは先日天に召された加藤常昭先生がよく強調して語っておられたことです。なぜここに「リアル」が付くかと申しますと、これは私の理解ですけれども、十字架と復活の主が現臨したもうところ、そこにはまさに私たち一人びとりの救いの出来事が起こるからです。つまりこの「リアル」とは単に現実性をあらわす形容詞ではなく「かけがえのない“あなた”を救いたもう神の御心」が現わされたリアリティだからです。だから十字架と復活の主イエス・キリストの現臨は単なる「プレゼンス」ではなく「リアル プレゼンス」なのです。

 

 そういたしますと、どういうことになるのでしょうか。まさに今朝の御言葉の36節において、十字架と復活の主イエス・キリストのリアルプレゼンスが起こりました。主の弟子たち全てが自らの眼で主を見、自らの耳で主の御声を聴きました。その御声とは何だったでしょうか?。36節にはっきりと示されています。「やすかれ=汝らに神の平安があるように」との主の御声です。主の十字架と葬りの出来事以来、大きな不安と恐れ、疑いと混乱の中にあった弟子たち全てに、十字架と復活の主イエス・キリストみずから「汝らに神の平安があるように」と告げて下さるのです。

 

実はそのとき、弟子たちはヨハネ福音書1425節以下の主の御言葉を思い起こしたことでした。「(25)これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。(26)しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起こさせるであろう。(27)わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」。

 

 そしてもうひとつ、同じヨハネ伝の1633節をも心に留めましょう。「(33)これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。もうひとつ外国語の話になりますが、このヨハネ伝1633節の「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」をルター訳のドイツ語の聖書では“aber seid getrost, ich habe die Welt überwunden.=しかし (あなたはいつも) 慰められ続けてありなさい (慰めを受け続けていることができる)(なぜなら) 私は既に世に (罪と死に) 永遠に勝利しているのだから”と訳しています。

 

 実はドイツ語の“troesten=慰め”というのは凄い言葉でして、そのもともとの意味は「かたわらに立って名を呼び続ける=あなたのかたわらに立ってあなたを支え続ける」です。十字架と復活の主イエス・キリストは、いつも御言葉と聖霊によって現臨しておられ、不安と混乱の中にある私たちのただ中にお立ちになり、私たちの全存在を、私たちのかたわらに立って最後まで支えて下さるおかたなのです。なぜなら「私は既に世に (罪と死に) 永遠に勝利しているのだから」と、十字架と復活の主イエス・キリスト自らがはっきりと私たち一人びとりに告げていて下さるのです。私があなたのために十字架を負うたからだ、私があなたのために墓に葬られ、復活したからだと、はっきりと現臨の主は私たち一人びとりに語っていて下さる。そして、私たちの全存在をいつもかたわらに立って支え続けていて下さる。十字架と復活の主イエス・キリストはまさに、そのようなおかたとして現臨しておられるのです。私たちのただ中に。

 

 私は森有正という哲学者が好きで、その著作をよく読むのですが (ちなみに森有正は改革長老教会の牧師の家庭に生まれた人です。毎朝カルヴァンのキリスト教綱要をラテン語で読む習慣を生涯続けていた人です) 彼はこういうことを語っているのです。キリスト者は決して絶望しない。この世界がどんなに混乱しているときにも、人間の罪がどんなに世界を暗く覆っているように見えても、また、自分がいかに無力で小さな存在に過ぎないかを思い知らされるときにも、私たちキリスト者は決して絶望しない。なぜなら、私たちは十字架と復活の主イエス・キリストの弟子たちだからだ。十字架と復活の主イエス・キリストは、私たちの絶望の根源である罪と死から、私たちを贖い、復活して、現臨しておられるかただからだ」。

 

 その通りではないでしょうか。私たちは十字架と復活の主イエス・キリストによって、既に絶望から解放されているのです。そしてまさに使徒パウロが第一コリント書1558節で告げている、あの信仰生活の基本姿勢に堅く立ちつつ、主と共に歩む者たちとされているのです。そこを読みましょう。「(58)だから、愛する兄弟たちよ、堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。

祈りましょう。