説    教            ゼカリヤ書99節  ルカ福音書192836

                「主がお入り用なのです」 浜北教会にて

                  2024・05・26(説教24212068)

 

(28)イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。(29)そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、(30)言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。(31)もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」。(32)使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。(33)ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。(34)二人は、「主がお入り用なのです」と言った。(35)そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。(36)イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた」。

 

 今日でもそうですけれども、古代の王は、威儀を(外見上の権威の徴を)とても気にしました。いわゆるプロトコルを(形式的な儀礼を)気にしたのです。それは、現代のような、テレビやインターネットというような情報ツールがございませんから、いわば見た目の威厳だけが王たるものの徴であると考えられていたことによります。その数多いプロトコルの中でも、特に古代の王たちがこだわったのは、即位の儀式における乗物でした。

 

 王が即位して、民衆の前に姿を現すとき、最低でも威風堂々たる4頭引きの馬車が用いられるのが常でした。もちろん、大ぜいの家臣や従者たちを引き連れての華々しい凱旋行進です。あの有名なパリの凱旋門は1805年にナポレオンがアウステルリッツの戦いにおける勝利の凱旋門として建造されたものですけれども、古代イスラエルにおいても、戦勝記念の凱旋や新国王の即位は、しばしば華々しく凱旋門を建てて祝われたのであります。

 

 さて、そこで、主イエスの弟子たちも、主イエスのことを「このおかたこそ、イスラエルの新しい王になられるかただ」と確信しておりましたので、当然のことながら、主イエスも、華々しいエルサレム入城を(凱旋行進を)なさるものだと考えていたのです。そのための具体的な算段をあれやこれやと思案していたわけです。ところが肝心の主イエスはと言いますと、どうも弟子たちの思惑とは様子が違うのです。主イエスは今朝の29節にありますように「「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき」弟子たちにお命じになって言われますには、続く30節にございますように「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。(31)もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と、こう言われたのでした。

 

これには、さすがの弟子たちも心の底から驚いたことでした。このかたはいったい何を考えているのだろうかと危ぶんだことでした。しかも主イエスは、そのような弟子たちの不安な心を見透かされたかのように「もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」と言われたのです。つまり主イエスは「私は子ろばを、ろばの子をこそ、必要としているのだ」と明言なさったわけです。これは事実上、御自身の王としての即位と凱旋を完全否定されたことでした。私はイスラエルの王になるためにエルサレムに入るのではないよと明言なさったのです。では、なんのために主イエスはエルサレムに入られるのでしょうか?。それは、今朝あわせてお読みした旧約聖書・ゼカリヤ書99節に答えがはっきりと示されているのです。

 

(9)娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」。ここには「娘シオン」「娘エルサレム」「神に従う者」「勝利」「高ぶらない者」という5つの大切なキーワードが出てきます。実はその5つの言葉のいずれもが、十字架のキリストのお姿を私たちにさし示しているものなのです。つまりここで主イエスは弟子たちに、このゼカリヤ書99節に告げられた十字架の主キリストこそ、私のことなのなのだよと、はっきりとお語りになっておられるわけです。私がエルサレムに入るのは、イスラエルの新しい王になるためなんかではないんだ、そうではなくて、全ての人の罪の贖いのために、十字架にかかって死ぬためであると明言なさったのです。ですから「私のために子ろばを連れてきなさい」とは、明確な十字架の予告なのです。

                                                     

 そして、大切なことは、31節にこのように記されていることです。「(31)もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」。(私はかつてイスラエルでずいぶんたくさんのロバを見ました。それは荷物運びのためのロバです。日本にもロバが日常的に荷物運びをしている街があります。それは長崎です)。ロバは小回りが利くし力持ちで、人間にとってとても有用な家畜なのですが、なぜか古代イスラエルでは卑しい動物として蔑まれていました。たとえば「あいつはロバのような奴だ」と言えば、それは侮辱の言葉でした。しかし主イエスは、まさにその、卑しめられ、軽蔑されていたロバを、しかもロバの子を、エルサレム入城の乗物としてお選びになったのです。そして弟子たちに「(31)もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい」とおっしゃったのです。

 

 そこで、私たちはまさにこの「主がお入り用なのです」という言葉にこそ、心を向けなければなりません。いささか私ごとになりますが、ひとつの思い出話をさせて下さい。(島村亀鶴先生の逸話。誰がなにを言うたかて、イエスはん「おまえやのうてはあかんのや」言うてはる。よさこいよさこい)。私たちは人間ですから、いかに神の僕、キリストの弟子であると言えども、様々な欠点や弱さを持っているのは当然であります。それは例えて言うなら、4頭引きの華麗な馬車の隣に、一匹の子ロバがポツンと置かれているようなものです。比較にも何にもなりません、較べること自体が愚かです。しかし、主イエス・キリストは、4頭立ての壮麗な馬車などではなく、まさに子ロバにすぎない私たちのことを必要としておられるのです。「おまえやのうてはあかんのや」と言って下さるおかたなのです。

 

 まさにそれが「主がお入り用なのです」という言葉です。私たちは、もし自分自身を顧みるなら、神の栄光を現しうる要素など何ひとつないと言わざるをえない、欠け多き弱き者にすぎないのですけれども、まさにその、欠け多き弱き私たちを、主は必要として下さる。選んで下さる。「誰がなにを言うたかて、おまえやのうてはあかんのや」と明言して下さるおかたなのです。それならば、私たちがそのような主に対してお答えすべき姿勢はなんでしょうか?。それこそ従順に他なりません。従順に、心ひとすじに、いそいそと余念なく、喜び勇んで、招きたもう主の御声に従い、選んで下さった主の恵みに寄り頼み、主の御言葉のままに、あるがままの自分をお献げするのみではないでしょうか。

 

 しかも、そのような私たちをお選び下さり、お入り用だとおっしゃって下さる主は、預言者ゼカリヤがいみじくもさし示しているように、十字架の主イエス・キリストなのです。私たちの測り知れない罪を贖い、私たちをあるがままに御国の民となし、天に国籍ある主の僕となして下さるために、御自身の生命を献げきって下さった十字架の主イエス・キリストこそ、子ロバである私たちを「かけがえのないもの」として、まさにあなたが必要なのだ、「おまえやのうてはあかんのや」と(主がお入り用なのです)とはっきりとおっしゃって下さる、唯一絶対の救い主なのです。

 

王は、死ねばお終いです。失脚すればお終いです。革命が起こればお終いです。王が交代すれば、あるいは王政そのものが倒されれば、わずか10年で思い出す人さえいなくなります。しかし、十字架の主イエス・キリストは、御自身が神の外に出てまでも、神の外に出てしまった私たちを救って下さったかたです。すなわち、あの十字架という痛ましき手続きを経て、滅びの子でしかありえなかった私たちを、御国の民となして下さり、私たちに永遠の生命を与えて下さり、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会において「聖徒の交わり」に生きる幸いと喜びを与えて下さいました。2000年の年月を経て、いまもなお十字架の主イエス・キリストは、聖霊によって現臨したまい、いつも私たちと共にいて下さり、救いの御業を現し続けていて下さるかたなのです。

 

今朝はどうぞ、この言葉を深く心に留めましょう。「主がお入り用なのです」。まさに十字架の主イエス・キリストが、あなたの唯一永遠の贖い主、救い主、慰め主にいましたもうのです。まさに十字架の主イエス・キリストが、あなたを必要としていて下さるのです。「おまえやのうてやあかんのや」と、ハッキリ告げていて下さるのです。だから、私たちは喜び勇んで、主の御声にお従いするのみです。自分を顧みず、ただ招きたもう主のみを見上げて、主と共に、主の愛と祝福の内を、信仰の道を歩んで参りたいと思います。「主がお入り用」だからです。主があなたを、選んで下さったからです。祈りましょう。