説     教            詩篇9749節  ルカ福音書242832

                  「聖霊なる神の御業」 ルカ福音書講解〔216

                   2024・05・19(説教24202067)

 

 「(28)それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。(29)そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。(30)一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、(31)彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。(32)彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

 

 復活の主イエス・キリストは常に、私たちの思いや計画やためらいを超えて「なお先へ進み行かれる」おかたなのです。そのことが今朝の御言葉であるルカ伝2428節にはっきりと示されています。ですから弟子たちは、この復活の主イエス・キリストを29節にありますように「しいて引き止め」なければなりませんでした。すなわち、クレオパともう一人の弟子は主イエスに(彼らはそのかたが復活の主イエスであられることにまだ気が付いていませんでしたが)こう申したのです。「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。これは、まさにその時の弟子たちの心情そのものではなかったでしょうか。私たちも人生行路において、ときどきこのような経験をするのではないでしょうか。

 

「夕暮れに道行く人の影絶へて道なほ遠き越の長浜」という歌がありますが、まさにこの時の弟子たちは、そのようなまことに寂しく、寄る辺なく、頼る人とても無き状態にあったのです。彼らはなんとしても復活の主イエスを「しいて引き止め」なければなりませんでした。しかしそれは、彼らの眼からそのように見えただけのことでして、復活の主イエス・キリストは最初から、彼らと共にあって、彼らと共に宿るべきことをお決めになっていらしたのです。ですから29節の終わりを見ますと「イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた」と、なんの屈託もない主イエスのお姿がそこに描かれています。復活の主イエス・キリストは、二人の弟子たちが(ここに集うている私たち一人びとりが)「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」と懇望するのを待っていて下さったのです。主イエス・キリストは、そのようなおかたなのです。

 

 さて、このようにして復活の主イエス・キリストと二人の弟子は、エマオの村のとある宿(おそらくは貧しい木賃宿)に泊まることになったのですが、そこで弟子たちにとって生涯忘れえぬ出来事が起こりました。どうぞ今朝の30節以下をご覧ください。「(30) 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、(31)彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。(32)彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。どういうことが起こったのでしょうか?。まさに私たちがいま読んだとおり、主イエスはその夜、食卓において二人の弟子たちに「パンを取り、祝福してさき、彼らに渡して」下さったのです。つまり聖餐式(Holy Communionεὐχαριστία)がそこで行われたのです。しかも司式して下さったのは主イエス・キリスト御自身です。ということは、復活の主イエス・キリスト御自身が、弟子たちに、取って、祝福して、裂いて、渡して下さった、そのパンとは、十字架において死なれ、全ての人の罪の贖いと救いとのために裂かれた、主イエス・キリスト御自身の御身体にほかなりません。今朝の御言葉には記されておりませんが、当然のことながら、主はブドウ酒の杯をも同じように祝福なさって、弟子たちにお配り下さったことでしょう。

 

 この、復活の主イエス・キリスト御自身が司式して下さった聖餐に与って、二人の弟子たちは、ようやくそこで目が開かれたのでした。復活の主イエス・キリストを見る信仰のまなざしが開かれたのです。ところで31節には不思議なことが書かれています。いま弟子たちにパンとブドウ酒を祝福し、配っていて下さった復活の主イエス・キリストのお姿が、二人の弟子たちが、それが復活の主イエス・キリストだと分かった途端に「(み姿が)見えなくなった」というのです。これはいったい、なにを意味しているのでしょうか?。実はこの出来事こそ、まさに驚くべき恵みと慰めの事実を、ここに集うている私たち全ての者に告げているのです。

 

 それは、どういうことかと申しますと、私たちも、この二人の弟子たちと同じように、十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる教会において、聖餐の食卓に与る者たちなのです。しかしその場合、私たちのことですが、私たちは復活の主イエス・キリストの御姿を、肉眼において見ているわけではありません。いまこの礼拝においても同じことが言えます。私たちは唯一永遠の救い主なる復活の主イエス・キリストの御言葉である福音に共にあずかる僕たちとして、いまこの礼拝に集められておりますが、しかしここで、肉眼において見える形で復活の主イエス・キリストを見ているわけではありません。ある意味において、復活の主イエス・キリストのお姿は、いま歴史の中を歩む私たちの眼には隠されているのです。言い換えるなら、復活の主イエス・キリストは、肉眼において見えるおかたとしてではなく、肉眼では見ることのできないおかたとして、いまここに(聖霊によって)現臨しておられるのです。

 

 それは言い換えるなら、あの復活の日の朝、主イエス・キリストのお墓を訪ねた女性たちが、そこで「空虚な墓」という現実に直面したことと同じです。そこには、彼女たちが慕い求めてやまない主イエスの肉体はありませんでした。代わって、そこにいた天使が彼女たちに告げました「なぜあなたがたは、生きたおかたを死人()の中に訪ねているのか。そのおかたは、ここにはおられない。復活されたのだ」。もしもあのとき、彼女たちがお墓で主イエスの御身体を(死体を)見出しえていたとしたら、彼女たちの慰めはその時一回限りの虚しいものだったでしょう。そして現代の私たちも、イスラエルのエルサレムに行けばキリストのお墓がある。そこに行けば2000年前におられた主イエスを偲んで、たとえ虚しくとも一時の慰めを得ることができる、そのような宗教にキリスト教はなっていたことでしょう。

 

 私たちは、キリスト教は、聖書が聖霊によって宣べ伝えている福音は、もちろんそのような一時的な虚しい慰めなどではないのです。そうではなくて、復活の主イエス・キリストは、聖霊によって現在形であられる救い主なのです。復活の主イエス・キリストはいつも、いつまでも、私たちと共にいて下さり、私たちの全存在を贖い、支え、永遠の御国へと導いて下さるかたです。だからこそそのかたは「キリスト=救い主」と呼ばれるのです。このキリストという字は現在形です。私たちはそのお姿を肉眼で見ることはできません。しかし使徒ペテロがペテロ第一の手紙18節で語っているように「(8)あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。(9)それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである」。この御言葉に対して私たちもまた心から感謝をもって「アーメン」と唱えるものです。讃美歌の275番にもこのように歌われています。「強き神の子、朽ちぬ愛よ、我らは君を、見るを得ねど、見るにもまして、いとさやかに、信仰によりて、君をあおぐ」。

 

 だからこそ、二人の弟子たちは最後にこう語り合いました。今朝の御言葉の32節です。「(32)彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。生ける復活の主イエス・キリストが、いま聖霊によって現臨していて下さいます。いつも、いつまでも、歴史の終わりに至るまで、歴史の終わりを超えてまでも、私たちと共にいて下さり、私たちを極みまでも愛し、支え、導いて下さいます。その復活の主イエス・キリストが共におられるところ、主の御言葉が私たちの魂に届きます。「わが子よ、私の愛の内を歩みなさい」と、復活の主イエス・キリストみずから、御声を聞かせて下さいます。そのとき、私たちの心もまた、今朝の二人の弟子たちのように「内に燃える」のではないでしょうか。「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

 

この「道々」とはまさに、私たちの人生行路の全体です。私たちの生涯変わることなく、いな、死を超えてまでも、復活の主イエス・キリストみずから、私たちと共にいて下さる。私たちに御姿を見せて下さる。御声を聴かせて下さる。そして私たちの全存在を贖い、救いの御業を現わして下さり、私たちだけだはない、全ての人を、そしてこの歴史の全体に、真の平和と自由を与え、救いの完成へと導いて下さるのです。その日を待ち望みつつ、今日このペンテコステから始まる新しい一週間の日々をも、復活の主イエス・キリストと共に、復活の主イエス・キリストの愛と祝福の内を、心を高く上げて、歩んでゆく私たちでありたいと思います。祈りましょう。