説     教           詩篇24910節  ルカ福音書241727

                  「栄光の王キリスト」 ルカ福音書講解〔215

                   2024・05・12(説教24192066)

 

 今朝の御言葉であるルカ伝2417節から27節まで、そのうちの21節までをもういちど口語訳でお読みいたしましょう。「(17)イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。(18)そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。(19)「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、(20)祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。(21)わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです」。

 

 主イエスの2人の弟子が、主イエスの十字架と死と葬り、そして復活について語りあいながらエマオまでの道を歩いておりましたとき、いつのまにか一人の人(復活の主イエス・キリスト)が彼らに寄り添うようにして共に歩き、そして彼らに問うて言いますには「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」と、このように質問しました。彼らはそれが復活の主イエス・キリストであることに気が付かないまま答えました。どうぞ18節以下を見て下さい。「(18)そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。

 

 彼らは、自分たちが主イエスの弟子であることを隠しつつも、主イエスが現わされた数々の奇跡、そして語られた御言葉について話しました。そして「この都(エルサレム)でこのごろ起ったこと」と前置きをしつつ、その主イエスが十字架に架けられて死なれたこと、自分たちはその御身体を葬った墓を見届けたこと、今日が葬りの日から数えて三日目であること、などを語りました。そしてさらに、今朝の22節以下でありますけれども「(22)ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、(23)イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。(24)それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」と、このように、自分たちが主イエスの墓が「空虚な墓」になったことをたしかに目撃したこと、そして女性たちが語った復活の音信について語ったのでした。

 

 そこで、どうぞ、今朝の25節以下をご覧ください「(25)そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。(26)キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。(27)こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」。 これが今朝の御言葉の最後の部分になるわけですが、復活の主イエス・キリスト御自身が、二人の弟子たちに告げておっしゃいますには「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。(26)キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」と、このようにはっきりとお語りになったのです。これは御言葉に基づいて救いの福音をお語りになられたことです。神の言葉である福音が宣べ伝えられるとき、そこに私たちの救いの出来事が起こるからです。

 

 大切なことは、復活の主イエス・キリストみずから、この御言葉を宣べ伝えておられることです。だからこそ主は二人の弟子たちに「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ」と言われたのです。これはまさに、私たち自身のことなのです。信仰による真の知恵(英知=Sofia)を私たちはどこで得ることができるのでしょうか?。それは少しも私たち自身の力や経験や努力によるものではないのです。それはただ復活の主イエス・キリストが、私たちに御自身を現わして下さることによるのです。それは私たちが努力精進して獲得する真理ではなく、真理そのものでありたもう復活の主イエス・キリストみずからが、私たちを訪ね求めて下さり、私たちに出会って、御自身を現わして下さり、御言葉を解き明かして下さり、聖霊によって私たちに「イエスは主なり」との信仰を与えて下さることによるのです。

 

 そこで、今朝の御言葉の中にもうひとつ、とても大切なことが示されています。それは27節にございますように、復活の主イエス・キリストみずから、二人の弟子たちに(まさに私たちに)「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」と記されていることです。これはいったい、どういうことなのでしょうか?。復活の主イエス・キリストみずから解き明かして下さったこととは、いったい何なのでしょうか?。

 

 私の同級生に山岡健という人がいました。「いました」というのは、彼は25年前に若くして癌で亡くなったからです。亡くなった当時、彼はフェリス女学院大学の常勤講師を務めていました。もし存命ならば、今頃はフェリスの学長か院長を務めていたであろうと想像しています。とても優秀な新約聖書学者でした。私がフェリスに説教に行ったとき、大きな文字で「Ferris」と書いてあるTシャツを着た山岡牧師が、私に親しく声をかけてくれた時のことを懐かしく思い起こすのです。さて、この山岡牧師がかつて神学校に提出した学位論文は「ヨハネ福音書におけるドクサ(栄光)についての考察」というものでした。私はその論文の写しを彼から貰って読んだのですが、文字どおり「目から鱗が落ちる」ような経験をしました。

 

 どういうことかと申しますと、その論文において山岡牧師は「ヨハネ福音書において「ドクサ(栄光)」という言葉は常にキリストの十字架を示している」と書いているのです。たとえば「ヨハネ福音書の中で主イエスが「わたしが受けるべき栄光」とおっしゃっておられる時、それは常に、御自身が十字架において私たちの罪の贖いのための死を死なれることを意味している」と書いてあるのです。私はこの論文を読んでから「栄光」という言葉に対する認識を180度改めることになりました。私たちはふつう「栄光」と聞きますと、それは栄誉や名誉を受けることだと理解しますね。しかし主イエス・キリストにとっては「栄光」とは、私たち全ての者の罪の贖いと救いのための十字架における死のことを意味するのです。しかも、例外は無いのです。

 

 なぜいまこのように山岡牧師の思い出を語ったかと申しますと、実は今朝の御言葉において復活の主イエス・キリストみずから語っておられる26節に「(26)キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」とあり、まさにこの「栄光」について明らかにして下さるために、復活の主は27節にありますように「モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた」からなのです。つまり、復活の主イエス・キリストみずからここで明らかにしておられることは、御自身が十字架にかかって死なれ、そして墓に葬られたことこそ「わたしが受けるべき栄光」であったということです。

 

 それならば、主が父なる神の御手から受けて下さったその「栄光」こそ、私たち全ての者の救いそのものなのではないでしょうか。主は十字架において、私たちの罪の贖いとして、御自身の生命を献げて下さったのです。その十字架の主イエス・キリストが同時に復活の主でもあられるのです。そこに、私たちの確かな永遠の救いがあるのです。今朝の26節の御言葉を改めて心に刻みましょう「(26)キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。それをいま新たに思い起こしなさいと、復活の主イエス・キリストみずから、二人の弟子たちに、いな、私たち全ての者に、語っていて下さるのです。そして大切なことは、これをいま語っていて下さる主みずから、御言葉と聖霊によって、いまここに現臨しておられる十字架と復活の主イエス・キリストであられるという事実です。

 

 なぜ私たちは日曜日を「主日」と呼ぶのか。それは十字架の主イエス・キリストが、私たち全ての者の救いのために、墓を開いて復活して下さった日だからです。そして今日から始まる新しい一週間の全てが、その「主日」の救いの喜びの延長線上にあるのです。十字架と復活の主イエス・キリストみずから、私たちと共にいて下さり、私たちに生命の御言葉である福音を語って下さり、救いの御業を現わして下さり、この歴史全体を救いの完成の日へと導いて下さるのです。いま私たち全ての者が、その救いの喜びと幸いと祝福の内を歩む僕とならせて戴いているのです。祈りましょう。