説     教           イザヤ書651節  ルカ福音書241316

                  「イエス自ら近づきて」 ルカ福音書講解〔214

                   2023・05・05(説教24182065)

 

 「(13)この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、(14)このいっさいの出来事について互に語り合っていた。(15)語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。(16)しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」。

 

 私たちはいよいよルカ福音書の最終場面に入って参ります。思い起こせば、ルカ伝の連続講解説教を始めたのはもう4年以上前のことです。最初は100回ぐらいで終わる予定でしたが、その予定に反して今日で214回目の講解説教となりました。それもこれも、全ては導きたもう主の御業であり、熱心に御言葉に耳を傾け、真実なる礼拝者であり続けて下さった皆さんの熱意と祈りの支えによるものです。

 

なお少し私自身のことを付け加えさせて戴きますなら、私は葉山教会に赴任して30年目を迎えました。その歳月の中で、新約聖書のほとんど全てを講解説教で語らせて戴きました。語っていないのはヨハネ黙示録ぐらいのものですが、そのヨハネ黙示録も説教の中での引用などによって、いつしかそのほとんどを語って参りました。また、旧約聖書に関して申しますなら、婦人会や青年会での聖書講解を加えますなら、やはり旧約聖書も、ほとんど全てを説教してきたことになろうかと思います。それも全ては主なる神の憐れみと導きによるものです。ただ主の御名を崇むるのみです。

 

 主イエス・キリストの復活の後、今朝の御言葉の13節にありますように「ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた」のです。この「ふたりの弟子」は一人は18節からもわかるように、クロパと呼ばれていたクレオパという人ですが、もう一人の名前は、今朝の御言葉からも知ることはできません。もしかしたらこのルカによる福音種を書いた医者ルカその人であった可能性もありますし、あるいはまた先週の礼拝でも学んだように、十一弟子たちの中で最初に空虚な墓を目撃したペテロであったかもしれません。

 

 しかし、私はここに、このルカ福音書の持つひとつの明確な意図があるように思うのです。それは何かと申しますと、私たちの誰でも、その「もう一人の弟子」になりうるのだということです。いや、もっと言いますならば、その「もう一人の名無しの弟子こそ、あなたなのだ」とここに明確に告げられているのではないでしょうか。その意味では、私たちはこの「エマオ途上の出来事」を他人事として、あるいは過去の出来事として、無関係の事柄として、聴くことはできないのです。それはまさにいま、私たち全ての者の救いの福音として、復活の主イエス・キリストみずから現わして下さった救いの出来事そのものたせからです。まずそのことをご一緒に確認した上で、私たちは続く14節以下の御言葉に入って参りたいと思います。

 

 「(14)(クレオパともう一人の弟子が)このいっさいの出来事について互に語り合っていた。(15)語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。(16)しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」。ここで二人の弟子が道々熱心に語り合っていたという「このいっさいの出来事」とは、もちろん十字架と復活の出来事です。まず十字架について申しますなら、彼らは主イエスがたしかに死なれたという、いわば「キリストの死の事実」についての証人でした。主イエス・キリストは私たちの罪の贖いのために、ゴルゴタの十字架の上で確かに死なれたのです。それは紛れもなく本物の死であり、だからこそ主イエスの遺体はアリマタヤのヨセフが用意した墓に納められたのでした。葬りは死の完成であるように、墓は人生の終着点である、それが彼ら二人の弟子たちの心と思いを支配してした厳然たる事実であったのです。

 

 だから、彼らが互いに語り合うべきことはたくさんありました。そして話題はいつしか、生前の主イエスの思い出へと展開していったのではないでしょうか。その意味においては、彼ら二人の弟子たちにとって主イエス・キリストは過去の人でした。ところが、日曜日の朝早くに主イエスの墓に行った女性たちは、たしかに「空虚な墓=主イエスがおられない墓」を目撃し、しかも天使が語り告げる言葉を聴きました。それは「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」という言葉です。キリストの復活の宣言です。さらに加えて、十一弟子の一人であるペテロもまた、たしかに「空虚になった墓」を見たと証言したのです。これら一連の出来事を、それこそ二人の弟子は、とても不思議な出来事として「いったいそれはなにを意味するのだろうか」と語り合っていたにちがいありません。

 

 まさにその彼らの旅路に、彼らの歩みに、いつしか一人の人影が寄り添って、共に歩むようになったことに、迂闊にも彼ら二人の弟子は、最初は気が付かなかったようです。いや、誰かが共に歩むようになったことには気が付いていたのでしたが、今朝の16節にありますように「しかし、彼らの(二人の弟子の)目がさえぎられて、イエスを(その人がイエスであることを)認めることが(知ることが)できなかった」のでした。いわば「目あれども見ず、耳あれども聞かず」という状態であったのです。

 

 まさにそこに、そのような弟子たちのところに、十字架と復活の主イエス・キリストは近づいてきて下さり、彼らと歩みを共にして下さり、彼らの言葉に耳を傾けて下さり、彼らに救いの御業を現わして下さるのです。今朝の御言葉の15節に「(二人の弟子が)語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた」とあるとおりです。これは、どういうことなのでしょうか?。私たちがここで思い起こすのは旧約聖書のイザヤ書651節の御言葉ではないでしょうか。そこにはこのようにございます「わたしはわたしを求めなかった者に問われることを喜び、わたしを尋ねなかった者に見いだされることを喜んだ。わたしはわが名を呼ばなかった国民に言った、「わたしはここにいる、わたしはここにいる」と」。

 

 私たちの主なる神は、御自身を求めなかった者、尋ねなかった人々に見いだされることを喜びとなして下さるおかたであるというのです。私たち人間が真理に出会うためには2つの方法があるのです。ひとつは、自分が意図的に、意識的に真理を訪ね求め、自らが苦労してそれを会得するという方法、つまり私たち自身が主体となる方法です。それに対して、もうひとつの方法があります。それは真理それ自体が私たちを訪ね求めて、私たちに出会い、私たちに呼びかけ、私たちに自らを知らしめることによって、私たちが真理に出会うという方法です。宗教学的に申しますなら、前者は自律的真理追及の道であり、後者は他律的真理追及の道であると言えるでしょう。またはいっそ明確に前者を自力本願的救済、後者を他力本願的救済と言うこともできるでしょう。

 

 実は、真理そのものであるまことの神を認識する能力が私たちにあるか否かと問われるならば、私たちは徹底的に無力な存在なのです。つまり、自分自身が主体となる道においては、私たちは決して、神を正しく知ることはできないのです。さらに言うなら、私たちは自分自身の中に微塵も救いの可能性というものを持たないのです。使徒パウロは私たち自身の内には「罪の法則」を見出すのみであって、私たちは「罪人のかしら」であると語っています。そのとおりではないでしょうか。それは言い換えるなら、私たちの内には救われるに値する功績(資格)が皆無であるということです。

 

 それならば、まさにそのような、救いに値する功績(資格)が皆無である「罪人のかしら」にして「滅びの子」である私たちのために、今朝の御言葉の15節にございますように「イエス自ら近づきて」私たちを訪ね求めて下さり、私たちと歩みを共にして下さり、私たちに御言葉を語って下さり、私たちに救いを現わして下さった十字架と復活の主イエス・キリストこそ、私たちの永遠に変わらぬ唯一の救い主にいましたもうのです。今朝の説教題を「イエス自ら近づきて」としたのはそのためです。「イエス自ら近づきて」私たちを見出して下さり、私たちの名を呼んで下さり、私たちと共に歩んで下さり、私たちのために救いの御業を現わして下さる、十字架と復活の主イエス・キリストこそ、私たち全ての者の、人類すべての、変わらぬ唯一の救い主であり、まことの神の永遠の御子なるキリストであられるのです。祈りましょう。