説     教            詩篇119105節  ルカ福音書24712

                  「御言葉の想起」ルカ福音書講解〔213

                   2023・04・28(説教24172064)

 

 「(7)すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。(8)そこで女たちはその言葉を思い出し、(9)墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した。(10)この女たちというのは、マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤであった。彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。(11)ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。〔(12)ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕」

 

 「マグダラのマリア、ヨハンナ、およびヤコブの母マリア」これら3人の女性たちに共通していたものは何だったのでしょうか?。それは彼女たちがみな、主イエス・キリストの復活の最初の証人となったことでした。そのとき、彼女たちがまず最初にしたことは8節にありますように「そこで女たちはその言葉を思い出し、(9)墓から帰って、これらいっさいのことを、十一弟子や、その他みんなの人に報告した」ことでした。ここに「その言葉」とありますのは、主イエス・キリストがお語りになった御言葉であります。すなわちそれは7節に天使が語った「人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる」という御言葉であり、主イエスはそれを親しく彼女たちに語っておいでになられたのです。

 

 私たち人間はまことに愚かなものでありまして、本当に大切なこと、覚えておくべきことはすぐに忘れてしまいますのに、大切ではないどうでもよいことは、いつまでもぐずぐずと覚えているのではないでしょうか。この3人の女性たちは、空虚な墓で天使の口から改めて主イエスの御言葉を告げられて、ああ、そういえばたしかに、主はそのように私たちにおっしゃっておられたと、いちばん大切なことを思い出したのです。キリストの言葉、生ける福音の真理の言葉が心に甦ってきたのです。十字架で死なれ、葬られた主は、必ず三日目に復活なさると(私たちは)お聴きしたではないか。主イエスははっきりとその大切なことを告げておられたではないか。それを改めて思い起こし、感謝と喜びに満ち溢れたのです。

 

私たちの主イエス・キリストは、私たちの救いのために十字架におかかり下さり、御自身の生命を献げて私たちの贖いを成し遂げて下さり、そして私たちに新しい永遠の生命(神との正しい関係、神との交わりにおける新しい希望の生活)を与えて下さるために、三日目に墓から甦って下さったおかたです。十字架の主がすなわち復活の主であられ、復活の主がすなわち十字架の主でもあられる、そこに時間的・歴史的存在である私たちの、確かな唯一の救いと希望が確立されているのです。言い換えるなら、主イエス・キリストは、十字架の死によって歴史全体を救い、復活によって私たちを、その救われた歴史の中を神の国に向かって歩む「信仰の民」となして下さり、全世界を救いの完成へと導いて下さる主であられるのです。

 

 ところで、今日の説教題を「御言葉の想起」といたしました。想起という言葉はあまり一般的ではありません。むしろ神学的な言葉だと言えるでしょう。どういうことかと申しますと、たとえば聖餐式のときに、一連の式の流れの中に「想起」という部分があるのです。ギリシヤ語ではアナムネーシスと申しまして、それは世界共通語になっています。具体的に申しますなら「我らいま主イエス・キリストの定めたまいし聖餐にあずからんとす。主イエス・キリストは我らのために十字架にかかり、その死と御苦しみとをもて我らの罪を贖い、いさおなき我らを招きて神の子となし、永遠の生命をたもうことを約したまえり。かく、主イエス・キリストは我らを愛して、その測り知るべからざる恵みを常に我らに憶えしめんがため、かくて御自身の現臨の恵みのもとに我らを永遠におらしめんがために、この聖餐を定めたまえり」これがアナムネーシス(想起)の内容です。

 

 ここでわかりますことは、「想起」の内容は徹頭徹尾、私たちのために主イエス・キリストがなして下さった御業を語り告げていることです。言い換えるなら、私たちの救いの主語は徹頭徹尾ただ十字架と復活の主イエス・キリストなのであって、少しも私たち自身の力や功績は含まれないということです。有体に申しますなら「救いはただ十字架と復活の主イエス・キリストにある」この事実を明確に告げているのがアナムネーシス(想起)です。

 

そこで、私たちはなによりも、このことを知らなければなりません。それは「想起」というのはただ単に主イエス・キリストがお語りになった御言葉を心の内に「思い起こす」というだけではないのです。そうではなく、いま聖霊によって現臨したもう復活の主イエス・キリストが、私たち一人びとりのために、そして全世界の救いのために、救いの御業をいま現わしていて下さる、この現在の救いの事実を告げているのが「想起」の内容なのです。それこそ「神の国は言葉ではなく、力である」(Tコリント4:20)なのです。神の御言葉が宣べ伝えられるということは、そこに聖霊によって現臨したもう復活の主イエス・キリストによる救いの御業が現わされることなのです。だから「想起」はいまここにおける私たちの救いと直結しているのです。

 

 だからこそ「マグダラのマリア、ヨハンナ、およびヤコブの母マリア」の3人の女性たちは、自分自身が十字架と復活の主イエス・キリストによって救いを与えられた者として、その救いの事実と喜びを出会った人たち全てに宣べ伝えずにはおれませんでした。言い換えるなら、彼女たちが宣べ伝えたものは復活の主イエス・キリストによる、いまここにおける救いの出来事です。まさに「想起」の内容こそ彼女たちが伝えたメッセージそのものでした。どうぞ今朝の10節の後半以下をご覧ください。「彼女たちと一緒にいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。(11)ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。〔(12)ペテロは立って墓へ走って行き、かがんで中を見ると、亜麻布だけがそこにあったので、事の次第を不思議に思いながら帰って行った。〕

 

 ここで私が心惹かれますのは、今朝の12節におけるペテロの姿が、私が33年前にエルサレムの聖墳墓教会で経験したこととよく似ていることです。ペテロは女性たちの話を聴いて(アナムネーシスを聴いて)急いで主イエスの墓に行きました。そこでペテロが見たものは空虚になった墓でした。主イエスの遺体を覆っていた亜麻布だけが(つまり死に装束が)そこに脱ぎ捨ててあったのです。これはすなわち、ペテロが同じルカ伝の245節の御言葉を聴いたことと同じなのではないでしょうか。すなわち「あなたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」というアナムネーシスです。今朝の12節によればペテロは「事の次第を不思議に思いながら帰って行った」とございます。この「不思議に思いながら」というのは「アナムネーシスの事実に圧倒されながら」という意味のギリシヤ語です。常識では理解することはできない、だからこそ信仰によって受け止めるべき「想起」の内容として、ペテロは空虚な墓に向き合ったのです。

 

 それならば、それは、ここに集うている私たちもまた、同じ経験をさせて戴くのではないでしょうか。親鸞聖人ではありませんけれども「罪悪深長なる凡夫=罪人のかしらなる私」がどうして救われたのか。それはただ、十字架と復活の主イエス・キリストのみが救いの主語であられるからではないでしょうか。言い換えるなら、あなたはそのままで良いのだと主は私たち一人びとりに語っていて下さる。あなたはそのままで良いのだ、罪人のかしらなるそのままで良いのだ、そのままで、あなたは私の十字架と復活の出来事の中に、いま私と共にある者とされているではないか。私があなたのために、あの十字架を担い、死にて墓に葬られ、そしてあなたと全世界の救いのために墓を空虚なものとなして復活したではないか。あなたは私の愛するかけがえのない人ではないか。私の愛の内におりなさい。私が永遠までもあなたと共にいるから、あなたは安心していなさい、そのようにいま主イエス・キリストは、私たちに語り告げていて下さるのです。それこそが、私たちがいま「想起」すべき主イエス・キリストの御業なのです。祈りましょう。