説     教       エゼキエル書341113節  ルカ福音書2417

                 「復活の朝に」ルカ福音書講解〔212

                   2023・04・21(説教24162063)

 

 「(1)週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。(2)ところが、石が墓からころがしてあるので、(3)中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。(4)そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。(5)女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。(6)そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。(7)すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。

 

 今朝の御言葉であるルカ伝241節以下には、復活の朝に起こった出来事が記されているのです。まず1節に「週の初めの日」とございますのは日曜日のことをさしています。「(1)週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った」。私たちキリスト者はふだん何気なく日曜日のことを「主日」と呼んでいますが、それは日曜日が文字どおり「主の日」すなわち主イエス・キリストが墓から復活せられた日(つまりイースター)だからです。それならば、一年にだいたい52回主日があるわけですが、その全ての主日が実はイースター礼拝なのです。全ての主日が、主イエス・キリストの復活の事実のもと、十字架と復活の主イエス・キリストの福音が宣べ伝えられ、十字架と復活の主イエス・キリストを「わが主・救い主」と告白し礼拝する日だからです。

 

 さて、1節にありましたこの「女たち」と申しますのは、同じ24章の10節によれば「マグダラのマリヤ、ヨハンナ、およびヤコブの母マリヤ」の3人でした。彼女たちはみな、主イエスによって救いの喜びを与えられた人たちです。ユダヤ教の安息日である土曜日には墓に行くことができませんでしたため、彼女たちは日曜日の朝になるのを待ちかねたかのように「用意しておいた香料を携えて、墓に行った」のでした。それは「夜明け前」つまりまだ夜の明けやらぬ早朝のことでした。東の空に仄かに輝き初めた黎明の明かりの中で、彼女たちは驚くべきものを見ました。それは、大きな石で厳重に塞がれていたはずの主イエスの御墓の入口が開いていたことでした。

 

 どうぞ2節以下をご覧ください。「(2)ところが、石が墓からころがしてあるので、(3)(女たちが)中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。(4)そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。(5)女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。(6)そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。(7)すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。

 

 復活の出来事は、ただ単に、主イエスは神の御子であられるから復活したのだ、というだけのことではないのです。復活の出来事は、それはなによりも、私たち全ての者の救いのための恵みの出来事なのです。なぜなら、そこでは墓の入口が開かれ、墓が空虚なものとされたからです。墓を満たすものが死であるなら、その死で満たされた墓がキリストの復活の生命によって空虚なものにされたのです。言い換えるなら、私たち人間を捕らえていた罪と死の支配が終わりを告げ、神の恵みによる新しい永遠の生命が満ち溢れる空間とされたのです。墓が生命に満たされ、復活の門となり、御国への入口となったのです。それこそまさに、恐るべき恵みでありました。

 

 過日331()のイースター礼拝の説教でも触れたことですが、私は今朝の5節の御言葉について忘れ難いひとつの思い出があります。それは女たちに天使が告げた御言葉です。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」。ここにいる皆さんはご存じだと思いますが、私は33年前、この言葉にエルサレムの聖墳墓教会で出会いました。聖墳墓教会(Church of the Holy Sepulchre)と申しますのは、まさに今朝の御言葉の主イエスの御墓を中心にして建てられた教会です。そこに入るために世界中から巡礼者たちが訪れます。私が行った日にも、午前中にもかかわらず既に長い行列ができていました。そこには5人ずつ5分間だけ入れるようになっていました。

 

 私はドイツのミュンヘンから来たという4人の修道女(シスター)たちと一緒に入りました。入るとすぐに前室がありまして、その先に身を屈めなければ通れない大きさの入口があり、それを通るとすぐ右側に主イエスの御身体をお納めした岩棚があります。その岩棚の上に長さ30センチほどの真鍮製のプレートがありまして、そこにギリシヤ語で「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」。(τι ζητειτε τον ζωντα μετα των νεκρων (6) ουκ

εστιν ωδε αλλα ηγερθη)と刻まれていました。私は修道女たちの求めに応じてそのギリシヤ語をドイツ語に翻訳してあげました。“Warum fragst du den Lebendigen unter den Toten? Er ist nicht hier. Er ist auferstandenイスラエルのエルサレムの聖墳墓教会で、日本から来た改革長老教会の牧師が、ミュンヘンから来たカトリックの修道女たちのために、ギリシヤ語の聖書の言葉をドイツ語に翻訳してあげる、これはなかなかにシュールな場面だなあと思いながら、しかし私はその経験をさせてもらったたおかげで、聖墳墓教会を訪れて良かったと心から思うことができました。

 

 私たちキリスト者は、この世界のどこにもキリストの墓というものを見出さないのです。言い換えるなら、主イエス・キリストは「かつて歴史の中に現れた偉人」ではないのです。いかなる意味においてもキリストは過去の人ではないのです。そうではなく、まさに天使が女性たちに、そしていま私たちに告げているように「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」なのです。墓を開いて復活なさった主イエス・キリストは、聖霊によって、いま私たちと共に現臨しておられる救い主です。主イエス・キリストは、いつも私たちにとって現在形の救い主なのです。そこでこそ、私たちは今朝のもうひとつの御言葉である、旧約聖書エゼキエル書3411節以下を心に留めましょう。「(11)主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。(12)牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。(13)わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う」。

 

 ここに告げられている「全ての人のための救いの音信」は全て現在形です。罪と死の支配(悪魔)が私たちを存在の根底から揺るがし、損ない、滅ぼそうとしているのです。その悪魔の支配に対して、主イエス・キリストは、あの十字架の贖いと死によって完全に勝利して下さいました。主が御自身の死によって私たちの死を滅ぼして下さったのです。それこそルターの語った「死を滅ぼす唯一の死」をキリストは死んで下さったのです。その十字架のキリストは、同時に、信ずる全ての者を罪と死の支配から救って下さる「復活の主イエス・キリスト」です。「見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。(12)牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。(13)わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う」。

 

 あの日、2000年前の3月の日曜日、復活の朝に起こった出来事こそ、いまここに集うている私たち全ての者の確かな救いなのです。だからこそ、私たちはこの日曜日を感謝と喜びをもって「主の日」と呼ぶのです。全ての日曜日の礼拝、主日礼拝が、イースターの喜び、復活の朝の喜びを告げるものだからです。私たちは生きた方を(よみがえられた主イエス・キリストを)死人の中に尋ねてはなりません。キリストを過去の偉人となしてはなりません。まさに主イエス・キリストは、十字架と復活の主として、いまも、のちも、永遠までも、私たちと共にいて下さり、私たちを極みまでも愛したまい、私たちのために御自身の生命を捨てて下さり、私たちを救い御国の民として下さり、私たちに尽きぬ永遠の生命を与えて下さる、唯一の真の救い主(キリスト)なのです。祈りましょう。