説     教           ヨナ書212−節  ルカ福音書235056

                 「死にて葬られし神」ルカ福音書講解〔211

                   2023・04・14(説教24152062)

 

(50)ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。(51)この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。(52)この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、(53)それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。(54)この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。(55)イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。(56)そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ」。

 

 今朝の御言葉に登場してくるヨセフはアリマタヤという町の出身であったため「アリマタヤのヨセフ」と呼ばれている人です。彼は50節によりますと「議員」であり「善良で正しい人であった」とございます。彼はエルサレムの七十人議会(サンヘドリン)の議員でした。これは今日で申しますなら国会議員です。しかもこのヨセフは「神の国を待ち望んでいた」信仰深い人であり、その信仰ゆえにでありましょう「議会の議決や行動には賛成していなかった」人でした。ここで言う「議会の議決や行動」とはもちろん、七十人議会が主イエス・キリストの十字架刑を議決し実行したことをさしています。つまりアリマタヤのヨセフは、七十人議会の中でただ一人、主イエス・キリストの十字架刑に反対を表明した議員であったわけです。

 

 古今東西を問わず、議会制政治においては常に多数決が議決の条件ですから、いわば691では、アリマタヤのヨセフの主張は多勢に無勢(ごまめの歯ぎしり)に過ぎなかったでしょう。事実として私たちは、今朝の御言葉をもし表面的に読み解くならば、自分が議会の議決に対して無力であったことを悔やみつつ、せめてもの罪滅ぼしの意味合いで、主イエス・キリストの葬りを買って出た一人の議員の姿をここに見るだけなのかもしれません。こうした場合「善良で正しい人であった」ということはほとんどなんの力にもならず、ましてや「神の国を待ち望んでいた」こともほとんど無意味であったようにさえ見えるかもしれません。言い換えるなら、たとえいかに「善良で正しく」信仰の篤い人であったとしても、主イエス・キリストの十字架による処刑を止めることはできなかったのです。

 

否、さらに言うならば、たとえいかに「善良で正しく」信仰の篤い人であったとしても、神の子イエス・キリストの十字架の死という事実をいささかも変えることはできなかった。死という出来事に対して、私たち人間は完全に無力であり、なすすべもなく呑みこまれるほかはない存在であることを、今朝の御言葉は示していると言えるのではないでしょうか。いや、誰よりもアリマタヤのヨセフ自身が、自分の無力さを嫌というほど思い知らされていたことでした。せめてヨセフにできることは、主イエスの遺体の引き取りを願い、今朝の53節以下にありますように「それを(主イエスの御身体を十字架から)取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納め」ることだけでした。要するにヨセフは主イエスの葬儀(墓への葬り)を行ったのです。そして54節以下にはこのようにございます「(54)この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。(55)イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。(56)そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ」。

 

 私たちが毎主日の礼拝のたびに歌いつつ唱える使徒信条の中に「(主イエス・キリストは)死にて葬られ…」という項目があります。皆さんはいつも、あの文言をどのような思いで告白しておられるでしょうか?。実は、あれは大変なことが告白されているところなのです。たとえば、私たちは神について、ごく一般的な認識として、どういうことを考えているでしょうか?。神は死なないからこそ「神」なのではないでしょうか?。もしも死んでしまうような存在だったら、あるいは、私たちと同じように、傷ついたり、ケガをしたり、病気になったり、弱ったり、疲れたり、そういう存在を私たちは「神」と呼べるだろうか。呼びうるだろうか?。そういうことを考えますとき、実は私たち人間は「神が神であるための条件」として不死性(絶対に死なない存在であるということ)を大前提としているのではないでしょうか。

 

 それならば、十字架の上で死にたまい、アリマタヤのヨセフによって墓に葬られた主イエス・キリストは、もはや(私たち人間の一般的な常識で言うなら)神ではないという結論にならざるをえないでしょう。もしも「死にて葬られし神」などというものがありうるのかと問われたならば。「そんなものはありえない」という結論にならざるをえないのではないでしょうか。しかし、そこでこそ私たちはよく考えなくてはなりません。というより、聖書が語る福音の本質をよく理解する必要があると思うのです。それは、私たち人間の死の本質はなにかという問題に繋がります。聖書はそこで、私たちが罪によって神から離れてしまったこと、神との交わりを失ってしまったこと、言い換えるなら「私たちが罪によって神の外に出てしまったこと」を語ります。つまり、私たち人間の死の本質は罪と直結しているのです。

 

 死は私たち全ての者にとって「あってはならないこと」です。言い換えるなら、私たち人間があるべき所(つまり生命)におらずして、あるべからざる所(つまり死)存在してはならない場所)に移されてしまうことです。それならば、死すべき私たち人間の救いはその本質において罪からの救いであらねばなりません。罪からの救いなくして死すべき私たち人間の救いはありえないのです。それならば、神の御子イエス・キリストは、永遠の神の独子であられながら(つまり、神と本質を同じくするおかたでありながら)ありうべからざる所(罪と死の支配)にある私たちを救うために、御自身が、ありうべからざる所に来て下さったかたなのです。罪と死の支配の中にある私たちを救うために、永遠の神の独子なるイエス・キリストが、十字架において、死んで葬られるおかたになって下さったのです。

 

換言すれば、御自身の十字架の死によって、私たちを罪と死の支配から贖い出し、救い、永遠の生命を与えるために、主イエス・キリストは、神と本質を同じくしたもうおかたでありながら「在りうべからざる所」に来て下さったかたなのです。十字架の死と葬りによって、神の外に出て下さった(神ではないものになって下さった)真の救い主であられるのです。神の外に出てしまった私たちを救うために、神ご自身が神の外に出て下さったのです。十字架の死と葬りによって、神ではないものになって下さったのです。それが聖書が語る十字架の意味であり、救いの恵みであり、福音の本質であります。

 

 折口信夫という民俗学者がおりました。奈良の明日香村に3000年の昔からある飛鳥坐神社の神官の家に生まれた人でして、八百万の神と言われる日本の神々について、あるいは日本の文化や伝統や宗教について、知らないことは何ひとつないというほどの博識な学者でした。釈超空という名で歌人としても有名な人です。この折口信夫が養子を迎えます。それは折口民俗学の後継者になるべき若き学者でした。ところがこの養子さんが太平洋戦争で戦死してしまった。その知らせが折口信夫のもとに届いたとき、彼は箱根の山の中の小屋に籠って数か月間、文字どおり泣き暮らしました。そして一つの歌を書きました。それが折口信夫の死後に発見されたのですが、それはこういう歌です。「世の中に人を愛する神ありてもしもの言はば吾のごとけむ」

 

 それは「もしもこの世界に、この世の中に、本当に人を愛し、人の救いを心から願って身を砕いて下さる、そういう神さまがおられるなら(いないと折口は語っているのですが)その神さまは今の私のようにものを言うであろう」。その「もしもの言はば吾のごとけむ」とは、もう言葉になどならない、ただただ嘆き悲しみ呻きのたうち回るほかはない、そのようないまの私と同じように、本当の神さまもまた、歎き悲しみ呻きのたうち回って下さるだろう、ただそのような神だけが本当に人を愛したもう神だ。ただそのような神だけを私は真の神と認め、信じたい、そうした思いを折口信夫はこの歌にこめているわけです。

 

 私たち全ての者の救いのために、私たちを極みまでも愛して十字架におかかり下さり、死にて葬られし神となられた主イエス・キリストこそ、否、主イエス・キリストのみが、その「真の神」であられるのです。「人を愛する神」でありたもうのです。神から離れ、神の外に出てしまって、あるべからざる所にあり、罪と死の支配の内にあった私たちを救い、永遠の御国の民となし、朽ちぬ生命を与えて下さるために、神の御子であられる主イエス・キリストのみが、神の外に出て下さり、死んで葬られるおかたとなって下さり、そのようにしてまで、私たちを救って下さったのです。だからこそ私たちは、この「死にて葬られし神」主イエス・キリストを「わが主、救い主」と告白するのです。祈りましょう。