説     教           詩篇315節  ルカ福音書234449

                 「百卒長のキリスト告白」ルカ福音書講解〔210

                   2023・04・07(説教24142061

 

 「(44)時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。(45)そして聖所の幕がまん中から裂けた。(46)そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。(47)百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。(48)この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。(49)すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた」。

 

 神の御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、死にたもうたときの出来事がここに詳しく記されているのです。44節を見ますと「時はもう昼の十二時ごろであったが」とございます。普通ならば、昼の太陽の光が眩くあたりを照らしているはずの時刻に、なんと「太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ」というのです。これは乾燥地帯であるイスラエルにおいては、きわめて珍しい自然現象であると言わねばなりません。いや、これは単なる自然現象ではなくして、父なる神がいかにその独子イエス・キリストの十字架を悲しみたもうたかということの現れでありましょう。

 

よく私たちは祈りの中などで「神さまの御心を悲しませたことを懺悔いたします」というような祈りをするのではないでしょうか。しかし、どうかよく考えてみて下さい。神は聖にして義なるおかたですから、私たち人類の罪に対しては聖なる御怒りを発したもうのです。罪人なる私たちは神の御怒りによって滅びるべき者たちなのではないでしょうか。それならば、御子イエス・キリストは、その神の御怒りを、私たちの身代わりになって一身にお受け下さったのです。それがゴルゴタの十字架の出来事なのです。罪なき神の独子なるイエス・キリストが、神の御怒りによって滅びるほかはなき私たち罪人のために、その御怒りを身代わりになって引き受けて下さったのです。それが十字架の出来事です。だからこそ時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ」のです。

 

 そして、ついに主イエス・キリストの臨終の時がやって来ました。どうぞ今朝の45節以下をご覧ください。「(45)そして聖所の幕がまん中から裂けた。(46)そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。まず「聖所の幕がまん中から裂けた」というのは、ゴルゴタの丘から遠く離れた所にあるエルサレム神殿の聖所の幕のことをさしています。それが上から下まで一直線に裂けたというのです。それは父なる神が御子イエス・キリストの十字架における御苦しみと死を「完全な犠牲」として受け入れたまい、そのことによって私たちの罪を赦し、私たちを御国の民(天に国籍ある者たち)として下さったことを示しています。もう神と人との間を隔てる中垣は取り去られたのだと宣言して下さったことです。十字架の主イエス・キリストを救い主と信じて告白する人は誰でも、なんの値もなくして、神の民、御国の民とならせて戴けるのです。主が十字架によって、父なる神の御怒りを私たちの身代わりとなって引き受け、私たちのために死んで下さったからです。

 

 そして、主イエス・キリストは臨終の際において「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言われました。これは詩篇315節にも出てくる言葉です。主イエス・キリストは私たちの救いのために、完全な死を死にたもうたのです。父なる神に自分の霊をゆだねるとは、その死がまことの完全な死であったことの証拠です。しかもその死は、ルターが語っておりますように「罪と死を撃ち滅ぼす唯一のまことの死」でした。罪なき永遠の神の独子のみが、その「罪と死を撃ち滅ぼす唯一のまことの死」を十字架において死んで下さることができたのです。

 

 さて、そこに、主イエスの十字架による処刑を指揮していたローマの士官(オフィサー)がいました。当時のローマ帝国の軍隊における「百卒長」という位の士官でありまして、これは今日における陸軍中尉に相当します。「百卒長」というのは「百人の兵士たちを率いる士官」という意味です。年齢は20代後半ぐらいだったと思われます。この百卒長は生まれはイタリアのどこかであったでしょう。それがユダヤ総督として赴任したポンテオ・ピラトと共にイスラエルに転任し、エルサレム駐留軍の士官として働くようになり、どういう経緯であったかはわかりませんが、この日、主イエス・キリストの十字架刑を指揮する立場にあったのでした。

 

 そしてそれは、周囲の人々が息をのむほど驚いた出来事でした。なんとこのローマの百卒長が、部下の兵士たちや他の人々が見ている前で、十字架の主イエス・キリストの御前にひざまづいて告白いたしますには「ほんとうに、この人は正しい人であった」と語ったのでした。文語訳の聖書ではこの47節の百卒長の信仰告白を「実にこの人は義人なりき」と訳しています。この訳のほうが正確だと思います。なぜなら「義人」というのはただ単に「正しい人」という意味ではなく、旧約聖書において「神に嘉せられる人」「神の喜びたもう人」「神のまことの僕」ひいては「神の子」を意味する言葉だからです。つまり、この百卒長は十字架の主イエス・キリストの御前にひざまづいて「まことにこのかたは神の子(キリスト)である」と告白したのです。

 

 皆さんはバッハのマタイ受難曲をお聴きになったことがあるでしょうか?。全曲で2時間以上にも及ぶ長い受難曲ですが、その核心(中心)はどこにあるかと申しますと、これは私の個人的な見解ですが、この百卒長のキリスト告白にあるのです。マタイ受難曲ですから百卒長の信仰告白はマタイ伝2754節にもとづいています。「まことに、この人は神の子であった」という言葉です。ドイツ語で申しますなら“Wahrlich, dieser Mann war der Sohn Gottes”です。ここで大切なのは「〜であった」を意味するsein動詞の過去形の“war”という言葉です。これは「この人は神の子であった、しかし今は違う」という意味ではありません。単に過去の事実を示す“war”ではないのです。そうではなくて、この百卒長は「まことにこのおかたは、私が罪人のかしらであったその時に、私の身代わりになって呪いの十字架を負われ、死んで下さった、真の神の御子であられる」と告白しているのです。そのような意味において、この百卒長は自分がキリストの十字架によって救われたことを語っているのです。ですから彼の信仰告白は、いまここに集うている私たち全ての者たちのキリスト告白をも促さずにはおかないのです。「まことにこのおかたは、私が罪人のかしらであったその時に、私の身代わりになって呪いの十字架を負われ、死んで下さった、真の神の御子であられる」。バッハはこの事実にこそマタイ受難曲の(つまりキリストの十字架の出来事の)中心があると見据えているのです。

 

 今朝の御言葉の最後の48節と49節をご覧ください。「(48)この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。(49)すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた」。これらの多くの人々の中で、実はキリスト告白をした百卒長がいちばん厳しい現実に直面したかもしれません。なぜなら、彼はローマの軍隊の士官であり、ローマ皇帝に忠誠を誓っていた人だったからです。その彼がキリスト告白をしたことによって、主イエス・キリストを救い主と信じたことによって、彼はおそらく官位を剥奪され、ローマ帝国に対する裏切り者とされ、路頭に迷う身になったかもしれません。

 

 しかしそれでも、そのような苦しい目に遭っても、この百卒長はこの日から以後の人生全体を、キリストを信じる者として(つまりキリスト者として)生きて行ったのではないでしょうか。そしてこれは想像ですけれども、この百卒長はキリストの弟子たちの誰かから洗礼を受けて、初代エルサレム教会に連なる者となり、その人生の全体を通して、この日にゴルゴタの丘の上で受けた恵みに感謝しつつ、主の御名を讃美しつつ、生きていったのではないでしょうか。それならば、この百卒長は本物のキリストの弟子、神の僕となった人です。ただ神の恵みによって、十字架の主イエス・キリストを証しする人とされたのです。それはどんなに感謝と喜びに満ちた生涯であったことでしょうか。

 

私たちもまた、この百卒長と同じ感謝と喜びの人生を歩む「神の僕」とされています。そして、私たち一人びとりもまた、この百卒長と共にいつも告白する幸いを与えられているのです。「実にこの人は義人なりき」(まことにこの人は神の子であった)と。祈りましょう。