説     教              詩篇3015節  ヨハネ福音書201118

                   「復活の主イエス・キリスト」 イースター

                      2023・03・31(説教24132060)

 

 「(11)しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、(12)白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。(13)すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。(14)そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。(15)イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。(16)イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。(17)イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。(18)マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した」。

 

 イースターおめでとうございます。なぜ私たちは復活日主日の朝、たがいに「イースターおめでとう」と声をかけあうのでしょうか?。クリスマスでしたら「メリークリスマス」です。しかし「メリーイースター」とは言いません(個人的には言っても良いと思いますが)。ドイツ語でしたら“Frohe Ostern”または「喜び」という意味のOsternを複数形にして“Fröhliche Ostern”となります。ではなぜ、イースターは「喜び」なのでしょうか?。その理由は、私たちの、そして全世界のまことの救い主であられる主イエス・キリストが、本当に甦られた、墓から復活なされた、復活の主がいまも、いつも、いつまでも、私たちと共にいて下さる、そして私たちを、御自身の復活の生命に連なる者たちとして下さる、この事実(復活の主イエス・キリストという出来事の事実)にこそ、イースターがまことの「喜び」である理由があるのです。

 

 ゴルゴタの丘の上での主イエス・キリストの十字架のそばに、最後までつき従っていた女性たちがいました。男の弟子たちは、十二弟子たちは、恐ろしさのあまりヨハネを除いてみんな逃げて行ってしまいましたけれども、女性たちは最後の最後まで、十字架の主イエス・キリストのそばから離れようとはしなかったのです。その中に奇しくもマリアと呼ばれる3人の女性たちがいました。それは、主イエスの母マリア、マグダラのマリア、そしてアリマタヤのヨセフの妻マリア、この3人でした。ともあれ、彼女たち3人のマリアは、十字架上で死なれた主イエスの遺体を引き取り、主の御身体にナルドの香油を塗り、綺麗な亜麻布で御身体を包み、アリマタヤのヨセフが用意した墓の中に丁寧にお納めしたのでした。つまり、3人のマリアは主イエスの葬儀を行ったわけです。そこには当然、アリマタヤのヨセフも出席していたことでしょう。墓に遺体を葬ることは、死の完成形であると言ってよいのです。ああ、もうこれで2度とこのかたとお会いできないのだ、このかたは死の向こう側に行ってしまわれたのだ、そのような切々たる悲しみの思いが3人のマリアを支配していたことでした。

 

 ですから普通でしたら、これで「全てが終わった」はずでした。ところがマグダラのマリア(彼女は主イエスによって救われた女性の一人です)ただ一人は、3日目の早朝に再び主イエスの墓を訪れたのです。すると彼女はそこで驚くべき経験をしました。なによりも彼女が驚いたことは、主イエスの墓を塞いでいたはずの大きな丸い石が転がされていて、墓の入口が開いていたことでした。そこで彼女が恐る恐る中を覗いて見ますと、主イエスの御身体をお納めしたところに…(どうぞ12節以下をご覧ください)(12)白い衣を着たふたりの御使(天使)が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。(13)すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。(14)そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。(15)イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。(16)イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である」。

 

 このようにして、マグダラのマリアは復活の主イエス・キリストに最初にお会いした人になりました。私たちがここで最も心惹かれますのは15節の御言葉ではないでしょうか。主イエスはマグダラのマリアに「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」とお訊ねになられたのです。これは直訳しますなら「あなたはもう泣かなくても良いのだよ」という意味のギリシヤ語です。主イエスはマグダラのマリアにはっきりとお語り下さったのです「マリアよ、あなたはもう泣かなくても良いのだよ。たしかに私なのだ、私はあなたの救いのため、そして全世界の救いのために復活したのだよ。私はいつまでもあなたと共にいる、だからもう泣かなくても良いのだ」と、はっきりと主は、復活の主イエス・キリストは、マリアに、そしてここに集うている私たち全ての者に、語っていて下さるのです。

 

 主イエス・キリストは、まことに十字架上で死んで下さいました。永遠の神の御子が、私たちの罪を贖い、私たちを救い、神の御国の民となし、永遠の生命を与えて下さるために、御自身の全てを、その生命までも、献げ切って下さったのです。罪とは定義するなら「私たちが神から離れて(神の外に出てしまって)どこまでも落ちてゆかざるをえなくなること」ですが、そのような、神の外に出てしまった私たちを救うために、神ご自身が、主イエス・キリストが、神の外に出て下さったのです。それが十字架による死です。神が、私たちの救いのために、どん底にまで降って来て下さったのです。言い換えるなら、神は、神から離れてしまった私たち、落ちてゆがざるをえなくなった私たちを救うために、神であられることを辞めて下さったのです。それが十字架による死の意味なのです。

 

 そして大切なことは、その神は同時に、復活の主イエス・キリストであられるのです。真の神のみが、真の神の唯一の御子であられる主イエス・キリストのみが、死に勝利されて、死の壁を打ち破って、墓を開いて、復活して下さったのです。なんのためにでしょうか?。私たち全ての者を罪から贖い、救って下さるためです。そして、私たちといつまでも共にいて下さるためです。復活の主イエス・キリストは世の終わりに至るまで私たちと共にいて下さる救い主であられ、この世界に、この歴史に、救いを与えて下さるおかたなのです。だからこそ、十字架も復活も、私たちのこの現実世界の歴史の中で、時間の中で、現実に起こった出来事なのです。歴史を、つまり、私たちの現実を、超越した所にではなく、まさに私たちのこの歴史的現実の中に永遠の救いを与えて下さるために、復活の主イエス・キリストは、まさに歴史的現実のただ中において、死に勝利して下さったおかたなのです。

 

 私は33年前にイスラエルのエルサレムを訪ねました。そのとき、得難いひとつの経験をさせて戴きました。主イエスの御身体を葬ったアリマタヤのヨセフが用意した墓の上に、現在は大きな聖堂が建てられています。聖墳墓教会と申します。英語で申しますと“Church of the Holy Sepulcher”です。洞窟のような構造をしたお墓です。そこを中心にイタリアのフィレンツェのドームの次に大きな、世界第二位の大きさのドームを持つ教会が建てられています。世界中からたくさんの巡礼者がそこを訪れます。私が行った日にも、たくさんの巡礼者が(その多くはローマン・カトリックの聖職者や修道女や信徒たちでしたけれども)そこを訪れていて、長い行列ができていました。5分ごとに5人ずつ中に入れる仕組みになっていました。私は「どうしようかな?」と思ったのですが、せっかくエルサレムまで来たのだからと思い直して、その行列に並ぶことにしました。

 

 私の前にはドイツのミュンヘンから来たという4人の修道女(シスター)たちがいました。彼女たちとドイツ語で簡単な自己紹介をして、30分ぐらい待ってから、いよいよ中に入ることになりました。洞窟の長さは約10メートル。中に入りますと主イエスの御身体をお納めした岩棚があります。私が心惹かれましたのは、その岩の壁に真鍮製の、長さ30センチほどのプレートがはめ込んでありまして、そこにギリシヤ語でルカ福音書245節の言葉が刻まれていたことです。「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。甦られたのだ」。私はこの文字を見てとても感動しました。そして、やはりここに来て良かったと心から思いました。修道女たちが私の感動を打ち破るように私に訊いてきました。「ねえ、あなたはこれが読めるんでしょう?。いったいなんて書いてあるの?。どうか教えて下さい=Sie können dies lesen. Bitte übersetzen Sie es für uns」。そこで私は彼女たちのためにその御言葉をドイツ語に翻訳してあげました。

 

 主イエス・キリストは、まことに復活されたのです。主は復活されて、いつも、いつまでも、私たちと共にいて下さるのです。「あなたはもう泣かなくても良いのだよ。私がいつも、いつまでも、あなたと共にいるからだ」と、力強く語っていて下さるのです。だからこそ、私たちは互いに心から復活日の挨拶を交わし合うのです。「イースターおめでとう。まことに主は、あなたのために、全ての人のために、全世界とその歴史全体の救いのために、墓を開いて復活されました」と。祈りましょう。