説    教              イザヤ書4110節 ルカ福音書226671

                  「全能の神の右に」 ルカ福音書講解〔202

                    2023・02・04(説教24052052)

 

(66)夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、(67)「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。(68)また、わたしがたずねても、答えないだろう。(69)しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。(70)彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。(71)すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。

 

 大祭司カヤパの邸宅の中庭に集まっていた人々は、夜が明けた頃に主イエスを「七十人議会=サンヘドリン」と呼ばれる議会に引き出し、そこで尋問を行いました。今朝の御言葉の66節と67節をご覧ください。「(66)夜が明けたとき、人民の長老、祭司長たち、律法学者たちが集まり、イエスを議会に引き出して言った、(67)「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」。これは現代の裁判制度でもそうなのですが、まず最初に被告人に対して「罪状認否」ということが行われます。つまり、被告人に罪の自覚があるか否かを問うわけです。それが今朝の67節における「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」という質問でした。

 

 つまり、七十人議会に集まった人々にとっては、主イエス・キリストが「私はキリストである」と語ることは、主イエスが自分の罪を認めることだったのです。これは、とても倒錯したこと(おかしなこと)ではないでしょうか。神が「私は神である」と語ることを、私たち人間は許さないのだとしたら、それほど倒錯した不条理なことはないのではないでしょうか。そのくせ、私たち人間は不必要な自己主張には熱心なのです。いつも、自分が世界の(人生の)中心でなければ気が済まないのです。言い換えるなら、私たちはいつでも、自分が神であろうとしているのです。自分が神に成り代わろうとしているのです。そのくせ、真の神を認めようとはしないのです。むしろキリストに向かって「あなたがキリストなら、そう言ってもらいたい」と罪状認否を求めるのです。

 

 この、私たちのあまりにも愚かな、罪に基づく問いに対して、主イエスはどのようにお答えになられたでしょうか。どうぞ今朝の67節後半以下をご覧ください。「イエスは言われた、「わたしが言っても、あなたがたは信じないだろう。(68)また、わたしがたずねても、答えないだろう。(69)しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」。昔から「論より証拠」あるいは「百聞は一見に如かず」と申します。主イエスは人々に(私たちに)「私を虚心坦懐に見るなら、私が神から遣わされたキリスト(救い主)であることがあなたにもわかるであろう」とおっしゃるのです。その確たる証拠とは何かと申しますと、それは「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」という事実です。

 

 ところが、この主イエスのお答えに七十人議会の人々は驚き、大騒ぎとなり、一様に主イエスを激しく非難しはじめたのでした。どうぞ70節以下をご覧ください。「(70)彼らは言った、「では、あなたは神の子なのか」。イエスは言われた、「あなたがたの言うとおりである」。(71)すると彼らは言った、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」。特にここで、彼らが鋭く反応したのは、主イエスが「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」とおっしゃったことに対してでした。まず「人の子」というのは、旧約聖書のダニエル書においてキリストをあらわす言葉です。ですから主イエスが「人の子は今からのち…」とおっしゃったのは、御自分を明確にキリストであると公言なさったことなのです。しかし、それだけではありません、主イエスはその「人の子」は「全能の神の右に座するであろう」とはっきりと公言なさった。これに人々は心底から反発したのでした。

 

 私たちが毎週の礼拝の中で歌いながら告白する使徒信条の中に「(主イエス・キリストは)全能の父なる神の右に坐したまえり」という一文があります。この場合、そのキリストは私たちの罪の贖いのために十字架を担われ、死して葬られ、そして復活なさった、十字架と復活の主イエス・キリストであります。つまり使徒信条において告白されている公同教会の信仰は、十字架と復活の主イエス・キリストは、父なる神の右に坐したもうおかたである、ということを強調しているわけです。そこで、この「神の右」という言葉ですが、右のことをヘブライ語で「ヤミーン」と申します。この言葉は「右」という意味のほかに「力」「権威」という意味を持っています。ですから「「(主イエス・キリストは)全能の父なる神の右に坐したまえり」とは「(主イエス・キリストは)全能の父なる神と等しき御力と権威をお持ちになっているおかたとして、聖霊によっていま私たちと共にいて下さる」という意味の告白なのです。

 

 もう一度申します。「(主イエス・キリストは)全能の父なる神と等しき御力と権威をお持ちになっているおかたとして、聖霊によっていま私たちと共にいて下さる」のです。かつて植村正久牧師は洗礼試問会の時に「いまキリストはどこにおられますか?」という質問を大切になさったと聞いたことがあります。それは、過去のでも未来のでもない、現在のキリストがどこにおられ、なにをなさっておられるか、という質問です。だから、これはとても大切なことなのです。主イエス・キリストは、いま、どこにおられ、あなたのために、何をなさっておられますか?という問いです。みなさんは、どのようにお答えになるでしょうか?。あんがいこの大切な問いに対して、私たちは明確な答えをなしえていないのではないでしょうか。

 

 なによりも、主イエス・キリスト御自身が、まことに明快なお答えを、私たちのために示していて下さるのです。「(69)しかし、人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」と。今朝、併せてお読みした旧約聖書のイザヤ書4110節にも、このようにございました。「(10)恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる」。私たちが真に恐れ(信じて寄り頼み)かつ驚くべきことは、主イエス・キリストの十字架による贖いの恵みによって、まさに今、全能の父なる神が「あなたと共にいる」おかたでありたまい「あなたの神」と呼ばれるおかたであるという事実ではないでしょうか。もし私たちが、この事実にこそ真に恐れかつ驚くなら、今朝の主イエスの御言葉に対する私たちの答えは、七十人議会の人々のそれとは異なっていたに違いありません。すなわちそれは、あの弟子の一人トマスのように「わが主よ、わが神よ」という讃美告白による答えです。

 

 しかしながら、自らを中心となし神に成り代わろうとしている人々は、今朝の御言葉の最後の71節にありますように、「これ以上、なんの証拠がいるか。われわれは直接彼の口から聞いたのだから」といきり立って主イエスを非難攻撃したのです。有罪の判決を下したわけです。それは人々が「では、あなたは神の子なのか」と問うたのに対して、主イエスが「あなたがたの言うとおりである」とお答えになったからです。特にこの「あなたがたの言うとおりである」とは、元のギリシヤ語を直訳するなら「それはあなたがたがそう言っていることだ」という意味の言葉です。主イエスは言葉ではなく、御自身の言動の全て、存在の全てによって、御自身が神の永遠の御子イエス・キリストであられることをはっきりと示しておられる。「神の国は言葉ではなく力」(Tコリント4:20)だからです。

 

 なによりも、主は十字架への道の途上において、今朝のこの御言葉を語って下さいました。私たちはいま聖霊によって、親しく現臨したもう主イエス・キリストにより、まさに十字架の御言葉を聴いているのです。「人の子は今からのち、全能の神の右に座するであろう」と。それはすなわち、こういう意味であります。「あなたがどんなに大きな困難や辛さの中にいるときにも、いや、そのような時にこそ、私はあなたと共にいて、あなたの全存在を十字架において贖い、あなたを救い、永遠の御国に導く」と。そのように主はいま、まさに「父なる神の右に座したもう」おかたとして、父なる神と同じ救いの御力と権威を持っておられるかたとして、私たちといつも共にいて下さり、私たちの全存在を担い、贖い、救いへと至らしめて下さるのです。そのような十字架と復活の主が、いま「父なる神の右に座したもう」かたとして、私たちといつも共にいて下さる。ここに、私たちの変わらぬ力と、希望と、幸いと、救いがあるのです。祈りましょう。