説    教         サムエル記上2210節 ルカ福音書223538

                 「最底辺に降りたもう神」 ルカ福音書講解〔197

                   2023・12・31(説教23532047)

 

 「(35)そして彼らに言われた、「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」。彼らは、「いいえ、何もありませんでした」と答えた。(36)そこで言われた、「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。(37)あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。(38)弟子たちが言った、「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」。イエスは言われた、「それでよい」」。

 

 主イエス・キリストは愛する弟子たちに(つまり、私たち一人びとりに)改めて問うておられるのです。35節の御言葉です。「わたしが財布も袋もくつも持たせずにあなたがたをつかわしたとき、何かこまったことがあったか」と。弟子たちの(つまり、私たちの)答えは模範的なものでした。弟子たちは「いいえ、なにも(困ったことは)ありませんでした」と答えたからです。その答えを受けた上で、今朝の御言葉の36節以下において「しかし」と主イエスは言われるのです。「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい。(37)あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。

 

 これは、どういうことなのでしょうか?。ここで主イエスが弟子たちに(私たちに)語っておられることの意味はいったい何なのでしょうか?。あたかも、まるで禅問答を投げかけられた修行僧のように、私たちはここで困ってしまうのではないでしょうか。「しかし今は、財布のあるものは、それを持って行け。袋も同様に持って行け。また、つるぎのない者は、自分の上着を売って、それを買うがよい」と聞いたとき、「どうして、イエス様はそんなことをおっしゃるのだろう?」と、主イエスの真意を測りかねて戸惑ってしまうのが、私たちの本音なのではないかと思うのです。

 

 聖書は、神の御言葉であり、私たちをたしかに救う福音の真理を物語るものです。しかし同時に聖書は、その福音の真理を、理想的世界に対してではなく、どうしようもなく醜く穢れた私たちの歴史的現実のただ中に語り告げるものです。ですから、聖書の中にはいわゆる「聞いてもありがたみを感じられない御言葉」というものも登場して参ります。そのひとつの代表的なものが、先ほど併せてお読みした旧約聖書・サムエル記上2210節です。そこにはこう記されていました。「アヒメレクは彼のために主に問い、また彼に食物を与え、ペリシテびとゴリアテのつるぎを与えました」。ここには「ゴリアテの剣」という言葉が出てきます。ゴリアテというのはご存じのように、ダビデによって倒されたペリシテ人の巨人戦士です。サムエル記上17章によりますと、ゴリアテが携えていた剣は600シェケル(7キロ)の重さがあるものでした。それをゴリアテはいつも軽々と振り回すことができたのです。しかし、このゴリアテを若きダビデは石投げをもって、たった一個の小石で撃ち倒したのでした。神が味方であられるなら、いかなる剣にも打ち勝つことができるのです。

 

 ですから「ゴリアテの剣」は、信仰なき暴力の象徴であり、神を信ずる者たちにとっては、もう必要のないものでした。それが再び、イスラエルの兵士に与えられたというのが、サムエル記上2210節の記述であります。つまりそれは「信仰なき暴力に対しては、信仰なき暴力をもって対処するしかないのだ」という価値観であり世界観です。言い換えるなら「郷に入っては郷に従え、この世のことはこの世のことだけが解決しうるのだ、この世の問題への対処において、信仰など何の役に立つのか?」という価値観です。そして実はこれは、私たちキリスト者にとっても、現実の生活の中でしばしば陥る誘惑なのではないでしょうか?。模範的な回答をするキリスト者ほど、実はこの誘惑に陥りやすいのです。私たちもまた、日常生活の中で、捨てたはずの「ゴリアテの剣」を愚かにも身に帯びるようなことをするのではないか。

 

 そこで、十二弟子たちが不思議に思い、戸惑いを感じた今朝の主イエスの御言葉の意味を解く鍵は、今朝の御言葉の最後の37節にあるのです。「(37)あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」。この「彼は罪人のひとりに数えられた」というのは、旧約聖書イザヤ書5312節の御言葉です。つまり、主イエス・キリストの十字架を預言している御言葉です。これはどういうことかと申しますと、主イエス・キリストの御降誕と御生涯と十字架において、神は私たち人間の罪の最底辺にまで降りて来て下さって、そこで下から私たちを受け止めるようにして、私たちに救いを与えて下さるおかたであるという福音なのです。

 

 罪とは何であるかを定義するなら、それは「落ちてゆかざるを得ない」ということです。私たちは自らの罪の重みによって、どん底にまで落ちてゆかざるを得ない存在である、この「落ちてゆかざるを得ないことに対する不可抗力性(irresistibility=抗い難さ)」こそ罪の本質と言ってよいのです。そしてそのどん底の本質は「魂の滅び」です。悪魔は罪の不可抗力性を最大限に発揮して、私たちを滅びという名のどん底に落とそうとしているわけです。そこに罪の本当の恐ろしさがあるのです。

 

 それならば、私たちの主イエス・キリストは、まさにそのような、罪に対して不可抗力性しか持ちえない私たちを救い、永遠の生命を与えるために、あのベツレヘムの馬小屋にお生まれ下さった神の御子なのです。つまり、このかたは、最底辺にまで落ちてゆかざるを得ない私たちを救うために、みずから最底辺にまで降って来て下さった神なのです。言い換えるなら、私たちは罪という名の最底辺の現実において、私たちを極みまでも愛し、私たちのために十字架におかかり下さった神に出会うのです。だから、デンマークの哲学者ゼーレン・キェルケゴールが語ったように「絶望は罪」なのです。なぜなら、最底辺に既にキリストが立っておられるからです。私たちにとって、キリストがおられない最底辺は存在しないのです。だからこそ絶望は「死に至る病」であり罪なのです。その罪を、滅びもろともに、十字架の主イエス・キリストは、御自身の死をもって滅ぼして下さったからです。私たちが「最底辺において神に出会う」とはそういう意味です。十字架の主イエス・キリストこそ「最底辺に降りたもう神」にいましたもうからです。

 

 主の弟子たちは、この大切なことに気が付かぬまま、今朝の御言葉の38節において「主よ、ごらんなさい、ここにつるぎが二振りございます」と申します。いつの間にか二振りの剣を手に入れて、どこかに隠し持っていたのでしょう。まさに弟子たちの手に、捨てたはずの「ゴリアテの剣」が再び握られた瞬間でした。この世の法則が、罪の法則が、神の国の秩序に打ち勝ったようにさえ見える瞬間でした。私たち人間の「落ちてゆかざるを得ない」罪の法則が全力で私たちを捕らえ、どん底に、つまり、滅びへと引き込もうとした瞬間を、今朝の御言葉は見事に描いているのです。

 

 しかし、まさにその「罪の法則」が発動した瞬間に対して、ゴリアテの剣を手にして得々としている弟子たちに対して、主イエス・キリストははっきりと宣言をして下さいます。「(37)あなたがたに言うが、『彼は罪人のひとりに数えられた』としるしてあることは、わたしの身に成しとげられねばならない。そうだ、わたしに係わることは成就している」と!。ここで私たちは第一コリント書の1555節以下の御言葉を思い起こします。「(55)死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。(56)死のとげは罪である。罪の力は律法である。(57)しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。(58)だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである」。

 

 これこそまさに、十字架の主イエス・キリストが(私たち一人びとりを極みまでも愛して下さって、御自身の生命を献げて私たちに救いと生命を与えて下さった主が)ご自身の十字架を指して宣言して下さった救いの福音であります。どん底にまで落ちてゆかざるを得ない私たちを、まさにそのどん底において受け止め、救い、永遠の生命を与えて下さるために、神ご自身が、神の永遠の御子イエス・キリストが、どん底にまで降りて来て下さった。そうすると、もはやどん底はどん底であることを失い、ちょうど桶をひっくり返した時のように、最底辺がそのまま神の御国(神の恵みの永遠のご支配)が現れる場所になるのです。私たちはいま、そのような救いの音信を戴いているのです。「どん底に降りたもう神」こそ、私たちの確かな、永遠の救いであり、そこに私たちは、どん底の絶望をさえ、担い取って下さった真の神のお姿を見るのであります。祈りましょう。