説     教          詩篇4068節   ルカ福音書1114

               「御心の天になるごとく」 ルカ福音書講解〔99

                2021・12・26(説教21521940)

 

 主の祈りの第4番目の祈りは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。私たちはこの祈りの言葉をクリスマスの次の日曜日、しかも2021年最後の主日礼拝において聴くことができたことを、とても幸いなことであると感謝するものです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」実はこの祈りの言葉こそ、私たちのキリスト者としての歩みの全てに関わる大切なものだからです。

 

 私たちの人生、また、この世界の歴史を顧みるとき、私たちはそこに数えきれないほど多くの矛盾や不合理な出来事があることを認めないわけにはゆかないのではないでしょうか。健康でありたいと願いつつ、いつも病気と隣り合わせの生活があります。豊かになりたいと願いつつも、いつも乏しい中で遣り繰りしている現実があります。夢をかなえたいと願いつつも、その願いをさえ踏みにじるような厳しい現実があります。私たちの生活は常に、理想と現実との断絶によって成り立っていると申しても過言ではないほどです。

 

 それなら、主イエスは今朝のこの祈りにおいて「あなたの夢を諦めてはならない」と教えておられるのでしょうか?。あるいは「理想を追い求め続けなさい」と語っておられるのでしょうか?。そのいずれでもないと思います。もっと大きなこと、さらに大切なことを、主イエスは今朝の第4番目の祈りにおいて、私たちにお教えになっておられる、というよりも、主イエスみずから私たちにそれを授けようとなさっておられるのです。

 

 そこで、私たちは改めて、この第4番目の祈りの言葉に注目しなければなりません。この祈りは「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。ここには「御心の天になるごとく」とあるのであって「この私の願いが実現しますように」ではありません。つまり、私たちの願望ではなく、主なる神の御心(願い)こそがこの祈りの中心なのです。言い換えるなば、私たちの立てる計画が中心なのではなく、主なる神のお立てになる計画こそが中心なのです。その中心となるべき場所はどこか、それこそ私たち一人びとりの人生そのものです。

 

 内村鑑三という人が書いた「キリスト者の慰め」という本の中に「祈りが聴かれざりし時」という一節があります。内村にはルツ子さんという愛娘がいましたが、この娘さんが重い病気に罹ってしまうのです。内村はそれこそ昼も夜も「ルツ子の病気を癒したまえ」と熱心に神に祈り続けましたが、それも虚しくついにルツ子さんは18歳で天に召されるのです。その壮絶な苦しみの中で、内村はついにこのように語っています。「我らの祈りは聴かれざるにあらざるなり」というのです。「我らの祈りは聴かれざるにあらざるなり。それは我らが祈るところ、求むるところにいたくまさりて聴かるるなり」。私はもう半世紀近く前になりますが、東京の多磨霊園にある内村家の墓所に行ったことがあります。そこには白い大理石でできたルツ子さんの墓標がありまして「ルツ子へ。また会う日まで」と刻まれていました。

 

 これも私が偶然に見つけた文章なのですが、内村の弟子の一人であり、のちに東京大学の総長になった矢内原忠雄が書き残している言葉があります。ルツ子さんの納骨式の時、矢内原忠雄も墓前にいて、次のことを目撃しました。内村は墓所の土を握った拳を高く天に向かって突き出し、そしてこう言った。「今日はルツ子の葬式の日ではありませぬ。さにあらずして、今日はルツ子の天に嫁入りするめでたき日であります!」そう言いまして「ルツ子さん万歳!」と叫んだというのです。矢内原はこの内村の姿を見て、自分もキリスト者になることを決意したそうです。彼はこう思ったのです「キリスト教はなんてすごい宗教だろう。自分は生涯変わらず、主イエス・キリストを信じて生きてゆきたい」と。

 

 私たちの祈りは、決して、聴かれないのではありません。私たちの祈りは、私たちが祈ることよりももっと大きく、深く、確かに、神によって聴かれるものなのです。主なる神が私たちの祈りにまさって最善のことを、最善の時に、最善の仕方で、私たちに行って下さるのです。それが「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りが実現することです。だからこそ私たちは「主よ、どうか、私の願いや求めではなく、あなたの御心が私の人生に実現しますように」と祈るのです。そのことの素晴らしさ、大切さを、主イエスはこの第4の祈りによって私たちにお教え下さいました。否、私たち全ての者に、この祈りと共にある新しい人生をお授けになったのです。

 

 私たちは心のどこかで、自分の願いが多く実現する人生こそが幸いな人生であると思い込んでいます。しかしそれが大きな間違いであることを、今朝の主の祈りが私たちに教えています。私たちの願望の実現の度合いに私たちの幸せの尺度があるのではありません。そうではなくて、神の御心が実現することにこそ私たちの真の幸いがあるのです。それは、主なる神は私たちが求めることにまさって、私たちの本当の求めが何であるかをご存じだからです。そして、私たちの人生のただ中において、神は御自身の御心を実現して下さる。すなわち、求める私たちに永遠の生命と真の自由と幸いを与えて下さるのです。この世においては真のキリストの弟子である歩みを与えて下さり、御国においては全ての主の聖徒らと共に永遠の至福に与る僕たちとならせて下さるのです。

 

 クリスマスのシーズンは16日まで続きます。私たちはこのクリスマスにおいてどのようなメッセージを聖書から与えられたでしょうか?。同じルカ伝の214節には、ベツレヘムの夜の闇を打ち破るように鳴り響いた天使たちの大合唱が記されています。「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、御心にかなう人々に平和があるように」。私たちはここでこそ問わずにはいられません。天使たちが語り告げたその「御心にかなう人々」とはいったい誰のことなのか?。そして、最も深い懺悔の心をもって、私たちは言わずにはおれません。「主よ、それは少なくとも私ではありますまい」と。

 

 しかし、そこでこそ、私たち一人びとりに主イエス・キリストの御声が響きます。「子よ、汝の罪ゆるされたり」と!。そうです、クリスマスとは、滅びの子でしかありえなかった私たちの救いのために、神の永遠の御子が、世界の最も低く、暗く、貧しく、悲惨なところに、つまり、私たちの罪のただ中に、お生まれ下さった出来事なのです。

 

 すでにこのクリスマスの出来事の中に、今朝の祈りが成就しているのです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」。神の永遠の救いの御心が、御子イエス・キリストによって、いま、私たちのただ中に成就しているのです。御心が天になるごとく、地にも行われるときが、いまここに来ているのです。私たち一人びとりの人生が、神の御心の現れる場所として、祝福され、愛され、贖われ、清められているのです。クリスマスおめでとうございます。そして私たちは「御心が天になるごとく、地にもならせたまえ」との祈りと共に、新しい主の年2022年を歩んで参りましょう。祈りましょう。