説     教         ダニエル書713,14節  ルカ福音書1114

                「御国を来らせたまえ」 ルカ福音書講解〔98

                  2021・12・12(説教2150193

 

 主の祈りの第3番目の祈りは「御国を来らせたまえ」です。私たちはこの祈りの言葉を待降節第三主日のこの礼拝において与えられたことをとても幸いなことだと思います。なぜなら、この祈りこそクリスマスに最もふさわしい祈りだからです。今朝はそのことをご一緒に心に留めながら、ルカ福音書とダニエル書から御言葉を聴いて参りたいと思います。

 

 待降節のことをラテン語でアドヴェントと言います。これはもともと「来りたもう」という意味の言葉です。そして意外なことに、このAdventというラテン語は英語のAdventureつまり冒険という言葉の語源にもなったものです。そこで改めて私たちが心に留めたいことがあります。神の永遠の御子イエス・キリストが、有限的な、死すべき存在である人間として歴史の中にお生まれになったクリスマスの出来事こそ、言葉の最も真実な意味において“Adventure”冒険ではなかったでしょうか。

 

 これをもう少し詳しく申しますなら、永遠にして聖なる神が、私たち罪人と連帯するために歴史のただ中に「来りたもう」出来事であるクリスマスこそ、神が私たちのためになさって下さった大いなる冒険に他ならないのです。そのために私たちはたった一つの事だけを改めて考えてみれば済むのです。神は、死なないからこそ神なのです。死んでしまうような存在は、もはや神と呼ぶことはできないはずです。

 

それならばクリスマスの出来事は、神が神ではないものにおなりになってまで、私たち全ての者を救って下さった救いの出来事なのです。言い換えるならば、神の外に出てしまった私たちを救うために、神ご自身が神の外に出て下さったのです。それこそまさしく、神が私たちの救いのためになして下さった究極の冒険であると言うべきでありましょう。

 

 「御国を来らせたまえ」の「御国」とは、もともと古典ギリシヤ語で「神の恵みの永遠の御支配」という意味の言葉です。ですから「御国を来らせたまえ」とは「神の恵みの永遠の御支配がこの歴史の中に現れますように」という意味の祈りです。では、その「神の恵みの永遠の御支配」とは、具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか?。それを知るためのとても大切な御言葉が、今朝あわせてお読みしたダニエル書713,14節の御言葉です。「(13) わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。(14)彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない」。

 

 ここには神の恵みの永遠の御支配を歴史のただ中に実現して下さるかたとして「人のこのような者」という人称代名詞が出てきます。これをお聞きになって皆さんは福音書の様々な場面において、主イエスがご自身のことを「人の子」と称されたことを思い起こすのではないでしょうか。例えばこのルカ伝の958節において、主イエスは人々にこうお教えになりました「(58)狐には穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。または、マルコ伝831節にはこのようにございます「(31)それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ、しかもあからさまに、これらの事を話された」。

 

 これらの御言葉からわかるよことは、「人の子」という言葉は主イエス・キリストが私たちの救いのために担われた十字架と深い関連をもって宣べ伝えられているということです。言い換えるなら「神の恵みの永遠の御支配」は十字架の主イエス・キリストによってのみ歴史のただ中に現実のものとして到来したのです。それならば「御国を来らせたまえ」という祈りは、御降誕と十字架の主イエス・キリストによって、主なる神の永遠の恵みの御支配が、私たちの歴史つまり人生のただ中に実現しますようにという祈りなのです。

 

 しかも、まさに私たちの人生のただ中に、永遠なる神の恵みの御支配が実現されるためにこそ、主イエス・キリストは、あのクリスマスにおいても世界の最も低く、貧しく、暗いところに、つまり、私たちの罪のどん底にお生まれ下さった救い主なのです。そして、その御降誕の目的は何であったかと申しますと、私たち全ての者の計り知れない罪を一身に担われて、ゴルゴタの十字架への道を歩まれることでした。そして主は十字架において御自身の全てを献下て下さり、私たちの罪の完全な贖いを成し遂げて下さったのです。

 

 このことを、スイス改革派教会のの神学者カール・バルトは「クリスマスの出来事において、幼子イエスの飼葉桶の向こう側に十字架が屹立しているのを私たちは見る」と語っています。そして、ある説教の中でこうも語っています。「幼子イエスを寝かせた飼葉桶と十字架は、同じ森の同じ木から作られたものであったかもしれない」。これはどういうことを語っているかと申しますと、私たちは「神は愛なり」とのクリスマスの喜びを歌うクリスマスキャロルの中に、もうひとつ「神は愛なり」との通奏低音が鳴り響いていることを聴き逃してはならないということです。その通奏低音は高らかに鳴り響くソプラノやテノールのキャロルを下から支えるように鳴り響くバスなのです。すなわち「主はあなたのために十字架におかかりになった」。

 

 それならば、私たちが「御国を来らせたまえ」と祈ることは、神の永遠の恵みの御支配が、御子イエス・キリストの御降誕と十字架の出来事によって、ただそれによってのみ、全ての人々の歴史と人生のただ中に「今来ている」限りない救いの喜びであり自由の告知であることを告白することです。主なる神は神の外に出てしまった私たちを救うために、クリスマスと十字架の出来事によって神の外に出て下さったのです。そのような究極の冒険(アドヴェント)を通して、神は神でないものになられて、神なき者たちのための神となって下さったのです。祈りましょう。