説     教            詩篇998節   ルカ福音書1114

                「御名を崇めさせたまえ」 ルカ福音書講解〔97

                  2021・12・05(説教2149193

 

 主の祈りの第2番目の祈りは「御名を崇めさせたまえ」てす。いえ、これは第2番目の祈りと申しますよりも、「天にまします我らの父よ」という呼びかけに続く最初の祈りなのですから、実質的には今朝のこの「願わくは御名を崇めさせたまえ」こそが、主の祈りにおける第一の祈りということになるでしょう。

 

 そこで、私たちは日ごろ「主の祈り」を祈るたびごとに、本当に正しくこの祈りの言葉を理解して祈っているでしょうか?。これは私たちの信仰生活にしばしば起こりうる誘惑ですが、祈りや礼拝出席も含めて、私たちの信仰生活はえてして形式的なものに陥りやすいのではないでしょうか。なによりも私たちは「願わくは御名を崇めさせたまえ」と祈るたびごとに、なんの違和感も疑問も抱かずにこれをただ形式的に唱えている、ということはないでしょうか。

 

 今朝、私たちが改めて心を留めたいことがあります。それは、私たちが「願わくは御名を崇めさせたまえ」と祈ることは、少なくとも自然なこと、当たり前のこと、当然のことなどではないという事実です。よく世間で申します諺に「困った時の神頼み」というものがあります。普段は祈りなんか献げたことのない人であっても、なにか困ったこと、苦しいこと、大きな困難に直面した時には、神頼み(お祈り)を始めるものだ、という意味の諺ですけれども、それは逆に申しますなら「願わくは御名を崇めさせたまえ」という祈りは、実は私たちの人生において、ほとんど出る幕の無いものだということになるのではないでしょうか。

 

 実際に、私たちの祈りの生活を改めて振り返ってみればわかることです。私たちの内の誰が、主なる神の御名を崇めることを、人生における第一の祈り(最も大切な祈り)としているでしょうか。むしろ私たちの祈りの生活は「困った時の神頼み」から一歩も出ていないのではないか。それがいけないと言うのではありません。「困った時の神頼み」おおいに結構だと私は思います。問題は、その「困った時の神頼み」が「願わくは御名を崇めさせたまえ」という祈りによって始まるものであるかどうかということなのです。

 

 今朝、併せて拝読した旧約聖書・詩篇999節に、このようにございました。「(9) われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。われらの神、主は聖でいらせられるからである」。ここで預言者であるイスラエルの詩人は、私たちが主なる神の御名を崇める理由は、主なる神が聖なお方だからだと祈っています。それ以外に理由はないというのです。つまり、私たち人間が勝手に解釈し、判断し、理解していることは、神の御名を崇める理由になんかならないのであって、それはただ神ご自身が聖なるお方であるという一点にのみ理由があるのだと言っているわけです。

 

 私の恩師に竹森満佐一という神学者がおります。日本において、否、たぶん世界的な規模において「礼拝学」というものを最初に提唱され、確立された神学者です。それは1960年代にドイツのハイデルベルク大学神学部の客員教授だった時に確立なさったのです。この竹森先生があるとき私にこういうことをおっしゃいました。「私たちが神を礼拝するということは、私たち自身の中にはなにひとつとして根拠が無いのだ。神礼拝の根拠は、ただ神ご自身の中にのみあるのだ」。私はこの言葉を聴いて目が覚めたように感じたものです。これはどういうことを竹森先生が語っているかと申しますと、私たちの救いの根拠は私たち自身の中にあるのではなく、ただ神の御業の中にあるのだということです。

 

 それは、宗教改革者カルヴァンの言葉を借りて申しますなら、神を正しく知ることはすなわち神礼拝に直結し、正しい神礼拝はすなわち私たちの完全な救いに直結しているからです。言い換えるならば、真の礼拝と私たちの救いは直結しているのです。真の礼拝なくして救いはなく、救われた者たちが献げる「霊と真による礼拝」こそ、私たちの教会の存在形式だからです。そこで、旧約聖書の創世記によれば、真の礼拝は「神の御名を呼ぶこと」です。また、私たちの教会が明治7(1874)に制定した日本基督公会礼拝規定によれば、礼拝とは「神の御名を呼ぶこと」であると定義されています。これはとても大切なことです。

 

 もしも主イエス・キリストが弟子たちに、最も大切な祈りの言葉として「願わくは御名を崇めさせたまえ」を教えて下さらなかったとしたら、弟子たちの日々ささげる祈りの中にこの言葉は生涯ありえなかったでしょう。それと同じように、もし私たちが主の祈りを学ぶ機会が無かったなら、私たちの人生においても「願わくは御名を崇めさせたまえ」という祈りは献げられえなかったにちがいありません。これは言い換えるなら、私たちはただ主の祈りによってのみ、私たちの救いの根拠が少しも私たち自身の中には無く、それはただ主なる神のなさった御業にのみあることを信じ告白する僕たちとされているのです。

 

 先ほどの竹森先生の言葉には、実は続きがあります。「願わくは御名を崇めさせたまえ」という祈りが私たちに与えられなかったなら、私たちはついに真の礼拝を知らずにいただろうと竹森先生は言われました。私もその言葉に心から同意しました。つまり、主イエスが私たちに与えて下さったこの祈りはほれほど素晴らしい祈りなのです。さらに申しますなら、私たちはこの祈りをささげ続けることによって真のキリスト者(真のキリストの弟子)とされてゆくのです。その場合、大切なことは、私たちがこの祈りを頭で理解しているか否かではなく、この祈りを与えて下さった主イエスの恵みに自分を委ねて生きることです。つまり、私たちは主の祈りを知識の言葉として祈るのではなく、信仰の言葉として祈るのです。

 

 最後に、神の御名が聖であられるということに心を留めたいと思います。先ほどの詩篇999節にも「(9) われらの神、主をあがめ、その聖なる山で拝みまつれ。われらの神、主は聖でいらせられるからである」とございました。しかしこの最後の「主は聖でいらせられるからである」とは、ただ単に神は神聖なかただ、という意味ではないのです。もちろんそういう意味もありますけれども、それ以上に、神の御名が聖であられるとは、神は御子イエス・キリストにおいて、私たちの罪のどん底にまで降りて来て下さって、私たちを存在の深みから救って下さるかたである、という意味なのです。つまり、真の神は救いの神として聖なるかたであり、それゆえにこそ神の御名は聖であらせらるのです。

 

 私たちはアドヴェントの第二週を迎えました。どうか今日からの新しい一週間の信仰の歩みにおいて、心を新たにして祈り続ける者たちでありたいと思います。「願わくは御名を崇めさせたまえ」。祈りましょう。