説     教           伝道の書52節   ルカ福音書1114

                「天にまします我らの父よ」 ルカ福音書講解〔96

                  2021・11・28(説教21481936)

 

 「主の祈り」の最初の言葉は「天にまします我らの父よ」です。私たちはそれこそ主の祈りを祈るたびごとに、何百回、何千回、何万回となく、この言葉を口に出して祈り続けて参りました。しかしながら、私たちは本当にこの言葉の意味を正しく理解しているのでしょうか?。今日はそのことをご一緒に考えつつ、福音の御言葉を聴いて参りたいと思います。なによりも、今日からアドヴントが始まりました。全世界の救いのために人となりて、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになられた御子イエス・キリストの御恵みを深く心に留めつつ、祈りを深めてクリスマスへの備えをするこの季節に「天にまします我らの父よ」という祈りの言葉を与えられたことは、大きな恵みであると思います。

 

 そもそも、主イエスの十二弟子たちが「私たちに祈ることを教えてください」と主イエスに願い出た直接的な契機となったことは、主イエスが祈りのたびごとに「天の父よ」と祈っておられることに感動したからでした。主の弟子たちはみな敬虔なユダヤ人の家庭に生れ育った人たちでしたから、旧約聖書以来の伝統的なユダヤ教の祈りを心得ていたのてす。それはとても長いもので、短い祈りでさえ15分ぐらいかかるものでした。それを弟子たちは幼い頃から両親に教えられ、身に着けていたわけです。ところが、主イエスの祈りは、そのような伝統的なユダヤ教の祈りとは決定的に違うものでした。その最も大きな違いこそ、祈りの初めにおいて神を「天の父よ」と呼びまつることだったのです。

 

 しかも、主エスが祈っておられた「天の父よ」という言葉は、直訳するなら「天にまします私の父よ」なのです。つまり主イエスは神を「私の父」と呼んでおられたわけです。ここに弟子たちの感動と驚きの根拠がありました。つまり、弟子たちは感じたのです。「イエス様は神様がすぐそばにおられるようなお祈りをなさる」と。これはしかし、思えばとても不思議なことではないでしょうか?。と申しますのは、私たちに与えられた祈りは「天にまします我らの父よ」なのです。神は天におられると祈っているのです。それにもかかわらず、神は「我らの父」として、私たちのすぐそばにおいでになる。その事実を明らかにしているのが「天にまします我らの父よ」という祈りの言葉なのです。

 

 19世紀のイギリスの詩人ロバート・ブラウニングRobert Browning)の有名な詩「春の朝」にこういう言葉があります。「時は春、日は朝、朝は七時、片岡に露みちて、揚雲雀なのりいで、蝸牛枝に這ひ、神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し」。The year's at the spring. / And day's at the morn;Morning's at seven;/ The hill-side's dew pearl'd;/ The lark's on the wing;/ The snail's on the thorn;/ God's in His heavn / All's right with the worldこの詩の最後の、英語で申しますなら“God's in his heaven. All's right with the world”を「神、そらに知ろしめす。すべて世は事も無し」と訳した上田敏は英文学者としてはもちろん、詩人としても非常に優れた人であったと私は思います。新倉俊一さんもそのような詩人である英文学者でした。それはともかくとして、ここでブラウニングは灌木の枝に這うカツムリと天におられる神との間に密接な関係があるのだということを表現しているのでして、私はそういう意味でこの詩に深い感動と共感を覚えるものです。

 

 そこで、本当の問題は単にヒバリやカタツムリに留まらないのです。ブラウニングもそれを明らかにしていると思います。本当の問題はむしろ、罪人のかしらである私たち人間にとって「天にまします神」がどのようなお方なのか、ということにこそあるわけです。神が天にいますという事実は、ただ単に神は私たちから遥かに遠く離れたところにおられる、という意味ではないのです。それは少なくとも聖書が語っている真の神の姿ではないのです。神は天におられる、天にしろしめしておられる、だからこそ私たちの父なる神として、私たちの最も近くにいて下さるおかたである、それが聖書が私たちに語り告げている真の神のお姿なのです。

 

 そのように考えて参りますと「天にまします我らの父よ」とは、とても素晴らしい祈りの言葉だということがわかるのではないでしょうか。そして、主イエス・キリストだけが弟子たちに、私たちに、この祈りをお教えになることができたのです。なぜでしょうか?。それは、ただ主イエス・キリストのみが、罪人のかしらなる私たち、まるで罪の塊であるかのような私たちを、それにもかかわらず、そのあるがまに極みまでも愛して下さって、私たちの罪の全てを背負って十字架への道を歩んで下さった救い主であられるからです。本来ならば私たちは、聖なる神の御前に立つことさえできない者たちであったはずですのに、神の永遠の独子なる主イエス・キリストのみが、その私たちの恐ろしい罪を担って十字架におかかり下さった。御自身の全てを献げて私たちの贖いとなって下さった。ただその主の十字架の贖いの恵みによってのみ、私たちは心からの喜びと確信をもって「天にまします我らの父よ」と神に呼びかけることができる者とならせて戴いたのです。

 

 だから、ブラウニングが語る「すべて世は事も無し=God's in His heavn / All's right with the world」とは、ルターの言葉で言い換えますなら“Alles ist Ordnung Gottes(全てのものは神の秩序のもとにある)なのです。私たちが神のお立てになった秩序に貢献したのではありません。事実はその真逆です。私たちは神がお定めなった想像の秩序を乱すことしかしなかったのです。それこそ讃美歌214番の歌詞にあるように「などか人のみ罪に染みし」なのです。空に歌うヒバリにも、枝に這うカタツムリにも罪などはありません。ただ私たち人間だけが罪によって神に背き、神から離れて生きることが真の自由だと思い違いをしているのです。ハイデルベルク信仰問答はそのような私たちの罪の姿を「倒錯した生きかた」と表現しました。倒錯した生きかたをしているにもかかわらず、自分は自由だ、健康だ、正常だと、心得違いをしているのが私たち人間なのです。

 

 まさに、そのような罪人のかしらなる私たちの救いと真の自由のために、神の永遠の御子イエス・キリストのみが、御自身の全てを献げて、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さり、私たちを御国の民、天に国籍を持つ者たちとして下さったのです。そればかりではありません。私たちが連なっているこの教会は聖なる公同の使徒的なる教会であり、その本質はキリストの御身体です。ということは、私たちのこの教会は、主なる真の神を「天にまします我らの父よ」と呼びまつる者たちの群れなのです。さらに言うなら、私たちのこの教会は「十字架の主イエス・キリストの恵みによってのみ“天にまします我らの父よ”と呼びまつる、主の弟子たちの群れ」であります。

 

 その意味で、今日のこの待降節第一主日の礼拝において、ご一緒に「主の祈り」の最初の言葉である「天にまします我らの父よ」という祈りについて心を合わせて御言葉を聴くことができたことは、神からの大きな祝福であったと思います。どうかこの祈りを心に常に留めつつ、ご一緒にクリスマスへと向かうアドヴェントの期間を、信仰の歩みとして整えて参りたいと思います。祈りましょう。