説     教            詩篇771節   ルカ福音書1114

                 「祈ることを教え給え」 ルカ福音書講解〔95

                  2021・11・21(説教21471935)

 

 「(1)また、イエスはある所で祈っておられたが、それが終ったとき、弟子のひとりが言った、「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、私たちにも祈ることを教えてください」。今日から私たちはルカ伝11章の学びへと入ります。その最初に記されているのは「主の祈り」を主イエスが弟子たちにお教えになられた出来事です。弟子たちはみなガリラヤの出身であり、熱心な信仰を持つユダヤ人の家庭に育った人たちでした。ですから、当時のユダヤ人たちが日々祈っていた祈りの言葉を彼らも知っていたはずなのです。それにもかかわらず、弟子たちはある日、主イエスに対して願ったのでした。「主よ、ヨハネがその弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈ることを教えてください」と。

 

 ここで弟子たちが言っている「ヨハネ」とは洗礼者ヨハネのことです。旧約聖書の時代と新約聖書の時代を橋渡しする偉大な最後の預言者であった洗礼者ヨハネは、自分の弟子たちに新しい祈りの言葉を教えていました。つまり、その祈りの言葉を知っていることが洗礼者ヨハネの弟子であることの証拠であったわけです。それを知っていた主イエスの十二弟子たちは、私たちにも新しい祈りの言葉を教えて下さいと主イエスに願ったのでした。これは言い換えるなら、彼らが本気で主イエスの弟子になろうと決意したことをあらわしています。

 

 これは20世紀初頭のドイツの教会史学者であったアドルフ・フォン・ハルナックという神学者が「教理史教程=Lehrbuch der Dogmengeschichte」の中で語っていることですが、初代教会において「主の祈り」はただ洗礼を受けた人だけに伝えられる祈りであった。初代教会の時代、洗礼式は土曜日の夕方に始まり日曜日の明け方まで、約15時間かけて行われました。そして洗礼を受けて新しくキリスト者になった人たちに「主の祈り」が伝えられたとき、そこにはとても大きな感動と喜びがあったとハルナックは語っています。なぜなら「主の祈り」を知ることは自分が本当のキリストの弟子になったことの徴であったからです。

 

 主の十二弟子たちは、本当にそのような感動と喜びを得たかったのでしょうか?。いや、むしろ彼らが主イエスに対して「私たちにも祈ることを教えてください」と願い出た理由は、ただ単純に、自分たちと主イエスとの絆を確かなものにしたかったからではなかったかと思うのです。しかし大切なことは、彼らの願いの動機はどのようなものであれ、主イエスは弟子たちをそのような願いを申し出る者たちへと導かれたという事実です。それはどういうことであったか、私たちはもう少し詳しく御言葉を通して考えてみたいと思います。

 

 主イエスの十二弟子たちは、主イエスが一人で山で祈っておられるとき、共に祈りを献げるどころか、むしろ邪魔をしていた者たちだったのです。「主よ、こんなところでどうして一人でお祈りなんかしておられるのですか?。私たちはあなたを探していたのですよ。さあ、すぐに街に戻って、人々の病気を癒して下さい」そのように主イエスの祈りの邪魔をしていたのが十二弟子たちであったのです。その弟子たちが、しかしある時から種イエスの祈りに耳を傾ける者たちに変わりました。私は、これは私自身の想像なのですけれども、その契機になったものは、やはり主イエスの祈りの言葉ではなかったかと思います。

 

 それがいったい誰であったかはわかりません。ペテロであったかもしれないし、ヨハネ、またはヤコブだったかもしれません。イスカリオテのユダであった可能性もあります。とにかくある時、弟子たちは主イエスの祈りの邪魔をしようとしていたのですが、そこで改めて主イエスの祈りの言葉を聴いたのです。するとどうでしょうか、それは何と素晴らしい祈りであったことか。弟子たちは思いました、自分たちはいまだかつてこんなに素晴らしい祈りの言葉を聴いたことがあっただろうか。主イエスの祈りは、神がすぐそばにおられるような祈りだった。何よりも弟子たちが驚いたのは、主イエスが神を「天の父よ」と呼び掛けておられたことです。これは弟子たちがそれまでに聞いたどんな祈りにも無かった言葉でした。神を「わが父」と呼び掛ける祈りは、弟子たちにとって大きな驚きでした。そして彼らは思ったのです「私たちもあのように祈りたい」と。

 

 そこでこそ主イエスが弟子たちにお教え下さった祈りが、今朝の2節以下に記された「主の祈り」なのです。「(2)そこで彼らに言われた、「祈るときには、こう言いなさい、『父よ、御名があがめられますように。御国がきますように。(3)わたしたちの日ごとの食物を、日々お与えください。(4)わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください』」。私たちはこのルカ伝111節から4節までの御言葉を、アドヴェントの期間と来年の1月にかけて8回に分けて学ぶことにいたします。そしてこの「主の祈り」の学びがアドヴェントの季節に重なることに、私は大きな意味があると思っています。

 

 どういうことかと申しますと、私が親しくしている牧師に聖公会の司祭がいるのですが(この司祭はもう引退されました)この先生があるとき、アドヴェントについての話の中でこういうことを言われたのです。「アドヴェントというのは、私たちが悔改めつつ祈りを深める時です」。私はそれを聴いて本当にその通りだと思いました。クリスマスを迎えるための準備の期間であるアドヴェントは、本当に「私たちが悔改めつつ祈りを深める時」なのではないでしょうか。なぜでしょうか?。永遠にして聖なる神が人となられた出来事こそクリスマスだからです。12世紀のアンセルムスという神学者は“Cur Deus homo?”と語りました。これは「なにゆえ神は人となりたもうたか」という意味のラテン語です。

 

 「なにゆえ神は人となりたもうたか」まさにここに、クリスマスの出来事そのものの中に、私たち全ての者の本当の救いがあるのです。私たちは本来は、神の御前に立ちえざる者たちであるはずです。聖にして永遠なる神の御前に、罪の塊のような私たち(滅びの子)がどうして立つことができるでしょうか。むしろ、私たちはいかなる意味においても神の御前に立つことのできない存在です。必然的かつ絶対的に滅びるよりほかにない存在です。そのように認めねばならないのが私たちなのではないでしょうか。つまり、私たちは救いから最も遠く離れた存在なのです。自分自身の中に救いの根拠を全く持たない者たちなのです。私たちは人間は全て、罪の支配とそこからの救いに関しては完全に無力であり、罪の奴隷と言わねばならない状態にあります。

 

 まさにそのような、救いのための余地が全くない私たちを救うために、神の御子主イエス・キリストは、永遠の神の独子であられるにもかかわらず、人となられて、世界で最も暗く、貧しく、低く、悲惨な場所に、あのベツレヘムの馬小屋に、お生まれ下さった救い主なのです。私たちのために、私たちの罪の全てを担って十字架への道を歩まれ、贖いの死を遂げて下さり、救いの可能性の全くなかった私たちを、限りなく愛して必ず救って下さるかたなのです。そのようなかたの到来を祝うのがクリスマスです。そして、まさにそのクリスマスの恵みによってこそ、私たちは祈りの言葉を与えられています。

 

 それこそ、新しい祈り、キリストの弟子たちの祈り、キリスト者のみが日々祈る祈りである「主の祈り」です。よく「私は祈れないのです」という人がいます。私はそういう人によくこう言います。「それならあなたは、私は祈れませんという祈りを献げることができますよ」。それに加えて、私たちは「主の祈り」を日々、自分自身の祈りとして祈る幸いと喜びを主から与えられているのです。どうか悔改めをもって(すなわち神に自分を委ねる幸いをもって)祈りを深めてゆくアドヴェントの日々を歩んでいきましょう。そして喜びと感謝の溢れる真のクリスマスを共に迎えたいと思います。祈りましょう。