説     教           詩篇274節   ルカ福音書103842

                 「無くてならぬもの」 ルカ福音書講解〔94

                  2021・11・14(説教21461934)

 

 「(38)一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた」。ここに「ある村」とありますのはベタニアという、エルサレムから3キロほど離れたところにある村であったと思われます。主イエスはエルサレムに上京なさったおりには、エルサレム市内に宿泊なさることを避けて、敢えてこのベタニア村に住むラザロ、マルタ、マリアという3兄弟の家に滞在なさることを常としておられました。主イエスがどのような経緯でこの家の家族と親しくなられたのかはよくわかりませんが、今朝のこのルカ伝1038節にはその最初の出会いの事柄が書き記されているものと考えることができるでしょう。

 

 どうぞ続けて39節以下をご覧ください。「(39)この女にマリアという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。(40)ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。姉のマルタは妹のマリアが自分の手伝いをしてくれないのに不満であったのです。主イエス・キリストという大切なお客をお迎えしたのです。マルタは何日も前から、それこそ心をこめておもてなしの準備をしていましたし、実際に主イエスがいらしてからも、足を洗って差し上げたり、お茶をお出ししたり、夕食の準備をしたり、それは忙しく立ち働いていたわけです。

 

 ところが、どうでしょうか。妹のマリアは、マルタがそのように忙しく立ち働いているにもかかわらず「(彼女は)主イエスの足元に座って御言葉に聞き入っていた」のでした。要するに、マルタ一人だけが忙しく働いていたわけです。そして、ついにマルタの堪忍袋の緒が切れました。マルタは主イエスに対してあからさまにこう言いました。「(40) 主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。すると主イエスはマルタにこうお答えになったのです。41節以下を見て下さい。「(41) 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。(42)しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

 

 私たち人間は日頃から多くの物に取り囲まれて生きています。人間が日常生活をするということは、注以上にたくさんのモノ(所有物)を必要とするのです。私にとっていちばん多い所有物は何といっても本です。私の書斎には神学書が約7000冊、その他の本が約3000冊、合計で約10000冊の本があります。これが全部なくなったらどんなにすっきりするだろうかと時々思うのですが、それは現実的ではありません。その10000冊の本は全て私にとって必要なものです。そして、もちろん本だけでは生活することはできませんから、その他いろいろなモノが私の生活上の必要物として存在しているわけです。それはここにいらっしゃる皆さんにとっても同じであろうと思います。さらに大きなもので言うなら、家も生活必需品ですし、車もそうですね。服も、食器類も、家具や調度品の数々も、その他、もし数えるならば驚くほど数多くのモノによって私たちの生活は囲まれ、支えられ、助けられているわけです。それが人間の生活というものなのです。

 

 ところが、主イエス・キリストはマルタに対して、否、ここに集う私たち一人びとりに対して、まことに驚くべきことをおっしゃるのです。「(41) 主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。(42)しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。ここで大切なことは主が「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」とはっきりおっしゃっておられることです。断言なさっていると言っても良いでしょう。たとえあなたの日常生活にとって必要不可欠なモノがどんなにたくさんあるように見えても「無くてならぬもの」は多くはない、否、それは「ただ一つだけ」なのだと主イエスははっきりとおっしゃっておられるのです。

 

 よく今朝のこの聖書の御言葉で誤解されることがあります。それは、ここで主イエスはマルタを否定してマリアを褒めておられるのだと理解することです。それは正しい理解ではありません。主イエスはマルタが忙しく立ち働いていることに対してひと言も非難しておられません。「まああなたもここに座って私の話を聴きなさい」とはおっしゃっておられないのです。言い換えるなら、主イエスはマルタの働きに対して敬意と感謝を払っておられる。これは言い換えるなら、主イエスは私たちが多くの所有物に囲まれて生活していることを少しも非難しておられないのです。むしろ、それは全てあなたの生活にとって必要なものだと認めておられるのです。つまり、主イエスは私たちの日常生活を祝福して下さるかたなのであって、決して否定なさるかたではないのです。

 

 そのような健全な人間生活への共感と理解の上に立ってこそ、主イエスは今朝の御言葉において最も大切なことを私たち一人びとりにお語りになります。それが「しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」という御言葉なのです。どうか改めて考えてみて下さい。「無くてならぬものは多くはない」というのは本当のことではないでしょうか。例えば私たちは、病気や怪我などをして入院したらそのような実感を持つのではないでしょうか。ある意味で入院するということは、日常生活のあらゆる所有物から必然的に切り離されることです。病気や怪我の治療こそがそこでは「無くてならぬもの」になるからです。

 

いえ、それでもなお私たちは究極的かつ本質的な経験をしているとは言えないかもしれません。私の大切な友人であった水野穣牧師が天に召される3日前に、私は彼を高松の病院に訪ねて共に祈る機会を与えられました。まず水野君が擦れるような声で祈りを献げました(彼はもう目が見えない状態だった)そしてその後で私が祈りました。私と水野君とは実の兄弟以上の関係でしたが、彼との地上における最後の会話となったその祈りにおいて鮮明になったことは、私と水野君にとって最も大切なもの、それこそ「無くてならぬもの」「必要不可欠なただ一つのもの」は神の御言葉であるという事実でした。それはカール・バルトの言葉を借りて言うなら「あらゆる究極の究極でありたもう主イエス・キリスト」のみが私たち人間の唯一の救い主であられるという恵みの事実です。だから、私が水野君と共に献げた祈りの最後の言葉はこうでした。「我らのために十字架にかかりたまえる主よ、ただあなたのみが、永遠に水野君の救い主であられるように、私の救い主でもあられます。それゆえ、私はいま水野君の全身全霊をあなたの慈しみ深き御手に委ねます。どうか私に、あなたの御国で再び水野君に会う喜びを与えて下さい」。

 

 今朝、併せて拝読した旧約聖書・詩篇第274節は、その時に私が水野君の病床の傍らで読んだ聖句です。「(4)わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを」。そうです、私たちはこの唯一の事があれば、いかなることがあろうとも生きてゆくことができるのです。

 

 主イエス・キリストはマルタに対して「(42) 無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」とはっきりとおっしゃいました。それと全く同じ意味において、私たち全ての者の人生から「取り去られてはならない唯一のもの」があるのです。それは永遠なる神の御言葉であり、御言葉の受肉者にいましたもう神の御子イエス・キリストの現臨です。もっっきり言うなら、それは私たちの全存在を限りなく愛して下さり、私たちを罪から贖うために十字架への道を歩んで下さった御子イエス・キリストの現臨です。もっと明確に言うなら、それは私たちのために十字架の主イエス・キリストが成し遂げて下さった全ての救いの御業です。ただそれのみ、ただそれだけが、私たち人間にとって「無くてならぬもの」であり「必要不可欠なただ一つのもの」なのです。祈りましょう。