説     教        マラキ書312a節   ルカ福音書102937

                 「善きサマリヤ人の譬え」 ルカ福音書講解〔93

                  2021・11・07(説教21451933)

 

 「(29)すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」。人間というのはまことに浅ましく身勝手なものです。主イエスを陥れようとして、わざと律法に関する難しい質問を主イエスに投げかけた律法学者でしたが、逆に主イエスから「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」という最大の律法を示されたとき、彼は「自分の立場を弁護しようとして」またもや一つの質問を主イエスに投げかけたのでした。それが29節にある「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」という質問です。

 

 隣人を愛することの大切さはよくわかっていますと彼は言うのです。それなら、どうか私に、愛するべき隣人とはいったい誰のことをさしているのか教えてくださいと主イエスに質問したのでした。律法学者にしてみれば、これは精一杯の見栄を張った質問でした。自分は律法に関しては専門家であり、パリサイ人である、その自分が無学な一庶民にすぎないナザレのイエスごときに言い含められ、負けてなるものかという見栄と敵愾心から、彼はこの質問を投げかけたのです。「では、わたしの隣り人とはだれのことですか?」。

 

 しかし主イエス・キリストは、このような愚かしい質問に対しても、それをお用いになってこの律法学者を永遠の生命へと導こうとなさるかたです。主イエスは彼にひとつのたとえ話をもってお答えになりました。それが今朝の30節以下の御言葉です。あるとき、一人のユダヤ人の男性が、エルサレムからエリコに下ってゆく荒野の道を歩いていました。そこは現在でもたいへん寂しい荒涼とした場所です。この旅人はそこで強盗に襲われて酷い怪我をしてしまうのです。強盗に大切な持物を奪われ、服をはぎ取られ、挙句の果てに刃物で傷つけられて、半死半生の状態で道端に横たわっていました。

 

 するとそこに、一人の祭司が通りかかりましたが、この怪我をしたユダヤ人を見ると、見て見ぬふりをして行ってしまった。ユダヤ教の律法では、罪人の血に触れると穢れると教えられていたからです。次に神に仕えるレビ人がそこを通りかかりましたが、やはり同じように見て見ぬふりをして立ち去ってしまいました。自分は神に仕える身なのだから、こんな怪我人の介抱をしている暇なんかないと思ったのでしょうか。最後に通りかかったのは一人のサマリヤ人でした。実はサマリヤ人とユダヤ人とは日ごろ犬猿の仲であり不倶戴天の敵どうしのような険悪な関係でした。ですから怪我をしたこの人から見れば、ああ自分の命運はここまでだ、サマリヤ人に見つかったら助けてもらえるどころか、逆に殺されてしまうと思ったのです。

 

 ところがどうでしょうか、このサマリヤ人は、33節以下にございますように「(33) 彼を見て気の毒に思い、(34)近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(35)翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った」のでした。つまり、このサマリヤ人は、本来ならば不倶戴天の敵であるユダヤ人の旅人に対して親切の限りを尽くしたわけです。すなわち、彼はまず、自分の服を破いてこの旅人の怪我に包帯をしてやり、次に、自分の馬に乗せて宿屋まで運び、宿屋では一晩中寝ないでこの旅人の看病をしてやり、翌日の朝に2デナリ(けっこう大金です)を宿屋の主人に手渡して「どうかこの人の看護をしてあげて下さい。もし費用が足りなかったら、私が帰りがけにここに立ち寄って支払いますから」と言って、名前も告げずに去っていったのでした。

 

 この譬え話をお語りになってから、主イエスはこの律法学者に改めてお訊ねになりました。今朝の36節以下をご覧ください。「(36) この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 10:37彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。今朝のこの譬え話は皆さんもよくご存じのように「善きサマリヤ人の譬え」と呼ばれるものです。日曜学校の子供たちに話しても子供たちは常に明快に「このサマリヤ人が怪我をしたユダヤ人の隣人になりました」と答えます。ある意味でこれはとてもわかりやすい譬え話です。ですから今朝の御言葉のこの律法学者も仕方なく(しぶしぶと)こう答えざるをえませんでした「その人に慈悲深い行いをした人です」と。そして主イエスは最後にこう言われたのです。「あなたも行って同じようにしなさい」。

 

 しかし、ここでこそ私たちは気を付けなければなりません。本当にこれは「わかりやすい譬え話」なのでしょうか?。むしろ、この譬え話が「わかりやすい」と感じている人は、これを単なるヒューマニズムの物語としてしか理解していないのではないでしょうか。そうではなくて、実は今朝のこの「善きサマリヤ人の譬え」を正しく理解するための大きな鍵は最後の37節の主イエスの御言葉にあるのです。「(37)あなたも行って同じようにしなさい」。私たちはこの最後の主イエスの言葉をどのような言葉として聴くのでしょうか?。どんなに嫌いな人や憎む敵に対しても、あなたは親切の限りを尽くさなければならない、という道徳の言葉としてこれを聴くのでしょうか?。もしそうだとすれば、私たちには絶望と無力感しか残りません。「はいイエス様、あなたのおっしゃることは正しいです。しかし、私にはそれはできません」としか言えないのではないでしょうか。

 

 そのように改めて考えますと、実はこの譬え話は決して「わかりやすい」ものなどではないのです。むしろ、とても難しい譬え話だと言わざるを得ないのではないでしょうか。それは、私たちが自分自身を基準にしてこの譬え話を読むからです。つまり「私だったらどうするか?」「あなたならどうするか?」という自分を中心にした道徳訓的要求としてこれを読んでいるからです。そして、そのような道徳訓的な読みかたを、私たちは無意識の内にしてしまっているのではないでしょうか。もしそうならば、繰返して申しますが、その結論は絶望と無力感でしかありません。「はいイエス様、あなたのおっしゃることは正しいです。しかし、私にはそれはできません」。

 

 ここではっきりと申しましょう。私たちはこの譬え話を「善きサマリヤ人の譬え」として読むからいけないのです。むしろこれは「善きサマリヤ人に助けて戴いた旅人の譬え」なのです。この譬え話には6(6種類)の人物が登場します。怪我をした旅人、強盗、祭司、レビ人、サマリヤ人、宿屋の主人。私たちはその6人の中のどれに自分を置き換えて読んでいるのでしょうか?。強盗に置き換える人はまあいないとして、ほとんどの人が無意識に、善きサマリヤ人に自分を置き換えて読もうとしているのではないでしょうか。しかしそれは違うと思います。それではこの譬え話の本当の意味は理解できないと思います。私たちが自分を置き換えるべき人物はただ一人、大怪我をして道端に横たわる旅人なのです。

 

 人生という名の旅路の途上で、私たちは罪(悪魔)という強盗に出遭って大怪我を負わせられ、道端に横たわるほかはない存在なのです。放っておけば必ず死んでしまいます。そのような私たちに対して、祭司(つまり律法)も、レビ人(つまり古くからの因習)も、救いとはなりません。私たちを救って下さるのは、ユダヤ人に対するサマリヤ人のような「絶対他者」であられる神の御子イエス・キリストなのです。このかたは、主イエス・キリストは、本来ならば救われるはずのない罪人である私たちを限りなく愛し、憐れんで、ご自身の全てを犠牲にしてまでも、救って下さるかたなのです。それがあの十字架の出来事です。ですから、今朝のこの「善きサマリヤ人の譬え」は主イエス・キリストの十字架をまっすぐに指し示しているのです。そうすると、今朝の御言葉の最後の37節の意味もはっきりと理解できるようになります。「(37)あなたも行って同じようにしなさい」とは「あなたもキリストのもとに行く人になりなさい。あなたのために主が担って下さった十字架の出来事によって、主イエス・キリストを信ずる人になりなさい」という意味なのです。

 

 私たちは今朝の「善きサマリヤ人の譬え」と呼ばれてきた主イエスのこの譬え話によって、全く救いの余地のなかった私たちを救うために、罪人のもとに駆け寄ってきてこれを抱きとめ、自分のすべてを犠牲にまでして私たちを救って下さった神の独子イエス・キリストの救いの御業を見るのです。私たちのために主が担って下さった十字架を見るのです。そして私たちは、その主の十字架の御業によって救われ、贖われ、永遠の生命を与えられた者たちとして、主の御身体なる教会に礼拝者として連なりつつ、主の弟子の一人となって、永遠の御国への旅路を歩んでゆきたいと思います。祈りましょう。