説     教         レビ記1912節   ルカ福音書102528

                 「最大の律法」 ルカ福音書講解〔92

                  2021・10・31(説教21441932)

 

 「(25)するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。(26)彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。(27)彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。(28)彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

 

 一人の律法学者が主イエスの前に現れて申しました。「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。当時のユダヤの人々にとって「永遠の生命を得ること」こそ、人生における最も重要な問題でした。この場合の「永遠の生命」は「救い」と同義語です。つまりこの律法学者は主イエスに対して「先生、何をしたら救いを受けることができるでしょうか」と訊ねたのです。この質問それ自体はとても真剣かつ切実なものです。しかし今朝の25節を見ますと、彼は「イエスを試みようとして」この質問をしたと記されています。いわばこの律法学者は、主イエスを困らせ、あわよくば失脚させてやろうという不純な動機から、この質問を投げかけたのです。

 

 ところが、主イエスは動機が不純なことには屈託なさらない。大切なのはその質問それ自体だとお考えになるかたです。たとえ動機が不純なものであったとしても、それに答えることによって彼が救いへと導かれることを主イエスは願っておられる。このことで私は一つの実話を思い起こすことができます。かなり昔のことですが、ある刑務所に強盗の親分が収監されていました。この囚人のもとに教誨師(牧師)が来て一冊の聖書を渡し「ぜひこれを読みなさい」と勧めました。ところが元々が強盗の親分ですから聖書なんか貰っても嬉しくもなんともない。「てやんでい、こんなもの読めるかい」ということで投げ出したところ、偶然開かれたページに彼の眼はくぎ付けになりました。

 

それはマルコ伝327節以下の御言葉でした。「誰でも、まず強い人を縛り上げなければ、その人の家に押し入って家財を奪い取ることはできない。縛ってからはじめて、その家を略奪することができる」。これを読んで強盗の親分はもう驚いてしまいました。そして教誨師に申しますには「先生、ここには強盗の極意が書かれています。イエス・キリストってえのはよっぽど凄腕の強盗の親分に違えねえ。あっしはぜひこの親分の弟子になりたい」。このことがきっかけになって、やがてこの強盗の親分は罪を悔改めて洗礼を受け、出所してからは教会の礼拝に休ます通い続け、やがてその教会の長老になり、敬虔な真面目なキリスト者として生涯を送ったということです。

 

このように、たとえ動機が不純なもの、間違ったものでありましても、主イエスはそれを潔めて、嘉したもうて、それをきっかけにして、私たちを救いへと導いて下さるかたなのです。それが主イエスのなさりかたなのです。そこで私たちは続きの御言葉である26節以下を読んで参りましょう。「(26)イエスは彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。(27)彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。(28)彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。

 

 主イエスがここで問うておられることは「あなたにとって最も大切な律法とはいったい何か?」というとです。ですから葉山教会のホームページに記した英語での説教題も“What is the most important Torah?”といたしました。このトーラー(Torah)とは全体で10000以上もある律法の全体をさす言葉です。私はかつてイスラエルに参りました時、ある書店でミシュナー(トーラーの解釈・判例集)を見つけまして買おうとしたのですが、全部で50巻あると聞いて諦めたことがあります。たとえそれを買えたとしても、重量にして100キロ以上にもなる本を日本に持ち帰ることは不可能でした。主イエスはこのような膨大な数の律法の中で、あなたはどれが最も大切なものだと思うかとこの律法学者にお訊ねになったのです。

 

 すると、さすがに主イエスを試みようとしてこのような質問をする人だけのことはありまして、彼はたちどころに一つの答えをしました。それが27節です「(27)彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。この律法は旧約聖書のレビ記1918節に出てくる言葉です。「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である」。ここで大切なことは、レビ記の原文では各々の律法の最後に「わたしは主である」という言葉が必ず書き記されていることです。これはどういうことかと申しますと、今朝私たちが併せて拝読したレビ記191節と2節に深く関わっているのです。「(1)主はモーセに言われた、(2)イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない』」。

 

 ところで、私たちは「主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」などと聞きますと、まるで自分が神と等しくあらねばならないように感じて縮み上がってしまうのではないでしょうか。しかしこの御言葉はもちろん、そういう意味ではありません。これは「あなたの神が聖なるかたであられるのだから、あなたは喜び勇んでその聖なる愛の中を歩む人になりなさい」という意味なのです。つまり、私たちが神と等しくあることを求められているのではなく、徹底的に神の愛の御手に自分を委ねて歩むことが求められているのです。その時、私たちにどういうことが起こるかと申しますと、月が自分では輝かず、太陽の光を受けて初めて輝くように、私たちもまた、神の聖なる愛を受けて生きることによって、自らの全生涯を「神に喜ばれる生きた聖なる供え物」(ローマ書121)として献げる新しい祝福の人生を歩む僕とされてゆくのです。輝きえないはずの私たちの人生が、神の聖なる愛を受けることによって、かけがえのない輝きを生ずるものとされるのです。

 

 それだからこそ主イエスは今朝の28節においてこう語っておられます。「(28)彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」。大切なことは、律法について何を知っているかではなく、その律法を喜んで行う人になることです。それと同じように、私たちにとって最も大切なことは、神についての知識をふやすことではなく、神の愛の御手に自分を委ねて歩む人になることです。知識ではなく信仰が大切なのです。さらに言うなら、神への正しい信仰のみが正しい神認識を私たちに与えるのです。ですから信仰による真の知識をラテン語ではソフィアと申します。それは私たちを誇らせる知識ではなく、むしろ私たちをして謙虚な神の僕となし、私たちをして神の栄光のために喜んで労する生涯を歩む神の僕となすものです。

 

 第一コリント書の81節から3節をお読みしたいと思います。「(1)偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。(2)もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。(3)しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである」。特にこの最後の3節に「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである」とあることに心を留めましょう。私たちにとって本当に大切なこと、真の慰めと勇気と知識を与えるものは、私たちが神について何を知っているかではなく、私たちが神によっていつも知られ、愛され、祝福され、贖われた者たちとして生きてゆくことなのです。

 

 神は私たちの救いのために御子イエス・キリストを世に与えて下さいました。その御子イエスの十字架の死によって、私たちの罪は贖われ、赦され、新たにされて、そこで私たちは聞くものとされています。「子よ、汝の罪赦されたり」との恵みの宣言を!。そして私たちは、主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会に結ばれることによって、主が賜る復活の生命にあずかる僕たちとされているのです。そのことを感謝と喜びをもって心に留めつつ、新しい一週間の日々を、神の僕、キリストの弟子として歩んで参りたいと思います。祈りましょう。