説     教        アモス書378節   ルカ福音書102324

                 「預言者にまさる幸い」 ルカ福音書講解〔91

                  2021・10・24(説教21431931)

 

 「(23)それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。(24)あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。ここに主イエス・キリストは「弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた」と記されています。これは「弟子たち」とは誰かということについて2つの解釈が成り立つ文章です。第一に、この「弟子たち」とは、主が伝道にお遣わしになった72人の弟子たちのことをさしているのだとする解釈、第二に、これはガリラヤにおいて主が最初にお立てになった十二弟子のことをさしているのだとする解釈です。

 

 しかし、もし最初の解釈で読むとするなら「振りむいてひそかに言われた」という言葉に無理があるように感じるのです。72人は明らかに「振りむいてひそかに言う」には多すぎるからです。むしろこれは十二弟子たちに対して主イエスが彼らを呼び集めて「ひそかに言われた」と理解すべき文章ではないでしょうか。そういたしますと、これはさらなる一つの推測なのですが、このルカによる福音書を書いたルカは72人の中にいたと推測されるのですから、今朝の御言葉は少なくともルカにとっては「主が自分には語って下さらなかった御言葉」になるわけです。それにもかかわらずルカがこの御言葉をここに書き記している理由とはいったい何なのでしょうか?。

 

 その秘密を解く鍵は、実は今朝の御言葉そのものの中に隠されているのです。それは23節の中にある「(主は)振りむいて」という御言葉です。福音書を丹念に読んで参りますと、主イエスが「振りむかれた」という御言葉に幾つか出会うのですけれども、実はそのいずれも、振り向いて戴いた側の者たちは「あなたがたは特別なのだよ」と言われているのではなく「あなたがたはそのままでは滅びてしまうのだよ、しかし、それではいけない!」と言われているのです。そしてその主イエスの「振りむき」は実は十二弟子たちだけのためではないのであって、もちろん72人のためでもあり、ひいてはすべての人々のための「振りむき」でもあるのです。そのことを知るがゆえにこそ、ルカはここで自分自身に与えられた主の御言葉(福音)としてここに2324節を書き記しているわけです。

 

 言い換えるなら、主イエスが私たちのほうを「振りむいておられる」とは、主イエスが私たちうちの誰一人として救いから漏らすまいと、心を砕いて待っておられることなのです。言い換えるなら、主イエスは私たち全ての者に対して「私はあなたの救いのためにここに来たのだ」とはっきりと語っていて下さるかたなのです。だから、どうしてあなただけが救われないことがあって良いだろうか。「この最後の者にも、私はおなじようにしてやりたいのだ」(マタイ伝20:14)と主ははっきりと語っていて下さるのです。それが主イエスの変わらぬなさりかたなのです。だからこそ、今朝の御言葉はルカにも、そしてここに集うている私たち全ての者にも、同じように主が「いまここにおけるあなたの救い」として語り告げて下さる福音の御言葉なのです。

 

 それでは、主イエスは私たち一人びとりに、いまどのような救いの御言葉を語り告げていて下さるのでしょうか?。「(24)あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。私たち日本人にとって最もわかりづらい聖書の言葉は「預言者たちの幸い」ということではないかと思うのです。「信ずる人たちは幸い」というのはよくわかる。「貧しい人たちは幸いである」というのもままああわかる。しかし「あなたの幸いは預言者たちにまさるものだ」と言われるとき、私たちのうちのいったい幾人が「本当にそのとおりだ」と納得できるでしょうか?。それは同時に、主イエスに振りむいて戴いた、ルカをはじめとする他の弟子たちにとっても同じだったのではないでしょうか。

 

 旧約の預言者たちの幸いは、神の御言葉によって人間が生きるべき真の道を示されたことです。さらに申しますなら、私たちが罪を赦され、神の民、天に国籍を持つものとして生きる、新しい道を歩む者とされたことです。人間は自然のままでは決して救われません。最近は人間の救いは自然の中にあるのだという主張が様々な仕方でなされるようになりました。しかし人間の自然性は罪の支配のもとにあり、私たちはそれに対して全く無力な存在にすぎません。つまり、自然の中には人間の救いはなく、私たち自身の中にも私たちの救いは無いのです。私たちの救いは、私たちの創造主であり、私たちを限りなく愛しておられる真の神にのみあります。そしてその真の神は、私たちのために尊い独子イエス・キリストをこの世界に賜り、御子の十字架の死と復活とによって、私たちの罪を贖い、私たちに神の義を、すなわち永遠の生命を与えて下さるかたです。

 

 古のイスラエルの預言者たちは、神の御言葉によって、人間の唯一の救いが神にのみあることを示され、その福音を人々に宣べ伝えた人たちでした、言い換えるなら、預言者たちは来たるべきイエス・キリストを証した人たちでした。しかし預言者たちは主イエス・キリストを証したのみで、実際に主にお会いすることはできなかったのです。しかしキリストの弟子たちは、私たちは違います。キリストの弟子たちは、私たちは、御言葉と聖霊によって現臨したまい、いまここにおいて救いの御業をなさっておられる御子イエス・キリストに実際に出会っているのです。だからこそ主は言われました。「(23)それから弟子たちの方に振りむいて、ひそかに言われた、「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである。(24)あなたがたに言っておく。多くの預言者や王たちも、あなたがたの見ていることを見ようとしたが、見ることができず、あなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである」。と

 

 歴代のイスラエルの王たちも、神に召されて御言葉を宣べ伝えた預言者たちも、キリストを証するのみで実際にはお会いすることはできませんでしたけれども、弟子たちは、私たちは、そうではないのです。私たちは御言葉と聖霊によって今ここに臨在しておられる主イエス・キリストにお会いしている者たちなのです。だから、主イエス・キリストははっきりと私たちにお告げになります。「あなたがたが見ていることを見る目は、さいわいである」と。この「さいわい」という元々のギリシヤ語は「限りない幸い、本当の幸福、無上の幸せ」という意味です。私たち人間にとって、無上の幸いがここにあるのです。私たちの救いのために十字架におかかり下さった御子イエス・キリストに出会うことです。そしてキリストを信じ告白する者として与えられた人生の日々を天国への旅路として歩むことです。そこにこそ預言者にまさる幸いがあります。そこにこそ、私たち全ての者への本当の祝福があります。そこにこそ、私たちの救いがあるのです。祈りましょう。