説     教         詩篇10015節   ルカ福音書102122

                   「神認識と神礼拝」 ルカ福音書講解〔90

                  2021・10・17(説教21421930)

 

 「(21)そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。(22)すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。 今朝のこの21節以下には、主イエス・キリストによる祈りの言葉、と申しますよりも、主がお献げになった神礼拝の言葉が書き記されているのです。

 

 実際、この時の主イエスの祈りの言葉は、弟子たちにとって驚きの連続であったに違いありません。まずここで21節に主イエスは「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした」と。祈っておられます。弟子たちにとっては、神を認識するということは、パリサイ人のような学問を積んだ律法主義者たちだけがなせることでした。いわば人間としての認識能力の最高極限にあるものが神認識でした。ところが主イエスは驚くべきことをおっしゃる。「これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」と言われるのです。しかも「父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした」とおっしゃるのです。

 

 ですからこの主イエスの御言葉は、弟子たちにとって打ちのめされるような驚きに満ちたものであったのと同時に、「ああ、そうだったのか」と、真の神認識についての正しい理解へと彼らを導くものでした。学問があるから、律法をすべて守っているから、厳しい修行を積んできたから、だから「神がわかる」というものではないということです。むしろ事実は逆でして、学問がある者、修行を積んできた者が、必ずしも神がわかるのではなく、むしろそのような人間的な努力精進が障害となって、正しい神認識を妨げていることが往々にしてあるのではないでしょうか。

 

 だから主イエスが言われるように「これらの事を(真の神認識を)知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」というのは、ただ主なる神のみが現わして下さった救いの御業と連続している出来事なのです。もっと言うなら、私たち人間は「神がわかったから救われる」のではなく「神によって救われたから神がわかる」のです。つまり救いが(私たちに対する神の救いの御業が)先なのであって、神への認識はその結果なのです。言い換えるなら、それこそがキリスト教の福音の大きな特徴なのでして、いつでもどこでも、まず私たちに対する主なる神の、御子イエス・キリストによる救いの御業が先にあるのです。その主イエス・キリストによる救いの御業に私たちが与かる者たちとならせて戴いて、そこに初めて正しい真の神認識が生じるのです。その逆ではないのです。

 

 もう10年近く前のことになりますが、私たちの教会の友愛会でアウグスティヌスの「告白」を学んでいたことがありました。その中にこのような一節があるのです。「汝の心を安んぜよ。もし我がまず汝に出会わざりしなば、汝は我を求めざりしならん」。これはどういうことをアウグスティヌスが語っているのかと申しますと、あなたは私()に出会ったからこそ私を認識しているのであって、その逆ではないのだということです。バルト的に言うなら、私たち人間の側からの神認識の可能性というものは無いのです。もしそれがあると思っていても、それは幻想にすぎず、そのような人間的努力の結果としての神認識は偶像にすぎないのです。アウグスティヌスは4世紀の教父ですが、その点を鋭く見つめているゆえに「汝の心を安んぜよ。もし我がまず汝に出会わざりしなば、汝は我を求めざりしならん」と語っているのです。

 

 実は、このアウグスティヌスの言葉は、私が高校2年生の時に洗礼を受ける契機になった言葉なのです。当時の私はアウグスティヌスの「告白」を熟読していまして、そこに大きな慰めを見出しました。つまり、私は洗礼を受ける前に、まず神について熟知しなければならないと考えていました。しかしそれが間違いで、その逆であることをアウグスティヌスの言葉が教えてくれたのです。のちに私は神学校でアウグスティヌスの神学を専門に学ぼうか、それともルターの神学を専攻すべきかと悩んだのですが、ルターの著作を読んでいるうちに、それがアウグスティヌスが明らかにした神認識の本質を極限まで深めていることに気が付きまして、それで私はルターの神学を専門に学ぶことにしました。そしてこのアウグスティヌスの言葉は、後にパスカルのパンセにも神認識の思想的理路として受け継がれてゆくことになります。「汝の心を安んぜよ。もし我がまず汝に出会わざりしなば、汝は我を求めざりしならん」。

 

 さて、私たちが主イエス・キリストによって真の神認識に導かれるとは、いったいどういうことなのでしょうか?。それはなによりも、私たちの救いのために十字架におかかり下さった主イエス・キリストの贖いの御業を信じることによるのです。つまり、福音においては信仰による認識がなによりも大事なのです。つまり「わかったから信じる」のではなくて「信じたからわかる」のです。それは決して人間的理性を軽んじるのではなく、むしろ人間的理性の限界点を認めつつ、それを超えて働きたもう神の恵みの御手に自分を委ねることです。そうすると、そこに何が起こるかと申しますと、十字架の主イエス・キリストを「わが主・救い主」と信じ告白する私たちは、同時に真の神礼拝へと導かれるのです。つまり真の神認識は私たちをして真の神認識へと導くものなのです。

 

 このことを宗教改革者カルヴァンはジュネーヴ信仰告白の中で「まことに神を知ることは、まことの礼拝を献げることである」と語っています。真の神認識と真の神礼拝は堅く結びついているのであって、それを切り離すことはできないのです。つまり「私は真の神を認識したけれども、その神を礼拝しない」ということはあり得ないのと同じ意味において「私は神を礼拝するけれども、それがどんな神かは知らない」ということもあり得ないのです。つまり、私たちにとって本当に大切なこと、無くてならないものはただ一つなのだということです。それは「あなたのために十字架におかかり下さった御子イエス・キリストとの出会い」です。では、私たちはどこで主イエス・キリストに出会えるのでしょうか?。それは御言葉と聖霊によるのです。主がお建て下さった主の御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会において、いまここに御言葉と聖霊によって現臨したまい、全ての人々のために救いの御業を現わしておられる御子イエス・キリストに私たちはいま出会う者たちとされているのです。

 

どうか今ご一緒に、今朝あわせてお読みした旧約聖書・詩篇第100篇の御言葉を改めて心に留めましょう。「(1)全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。(2)喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。(3)主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。(4)感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。(5)主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである」。

 

 なぜ、どうして、私たちは「主にむかって喜ばしき声を上げる」のでしょうか?。なぜ、どうして私たちは「喜びをもって主に仕え、歌いつつ、その御前に来る」のでしょうか?。なぜ、どうして私たちは「主こそ神であることを知る」のでしょうか?。それはただ一つの理由によるのです。つまり、それは「(3)われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である」事実によるのです。私たちを捕らえていた測り知れない罪の縄目から、キリストは御自身の全てを犠牲にして、生命までも献げて下さって、私たちを解放して下さった。その贖いの事実によってこそ、私たちは真に神を認識し、そして同時に、真の礼拝者とされてゆくのです。そこに、私たち一人びとりに与えられた救いの恵みの確かな証拠があります。

 

いま、ここにおいて、私たち全ての者が十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる、聖なる公同の使徒的なる教会の一員とされていること、主が私たちの救いのために十字架におかかり下さったこと、それこそ最も確かな、変わることのない、私たち全ての者の救いの事実なのです。まさにその救いの事実においてこそ、私たちは真の神認識と真の神礼拝の幸いを与えられているのです。祈りましょう。