説     教         イザヤ書424節   ルカ福音書101720

             「汝らの名の天に録されたるを喜べ」ルカ福音書講解〔89

                  2021・10・10(説教21411929)

 

 「(17)七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。(18)彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。(19)わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。(20)しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

 

 主イエスはこの10章の1節にございましたように、ご自分がこれから行こうとされていた町々村々に72人の弟子たちを先にお遣わしになって、彼らを伝道のわざに従事させたまいました。その72人の弟子たちがカペナウムにいる主イエスのもとに帰ってきたとき、彼らの態度は自信と得意げな様子に満ち溢れていたのです。17節をもう一度ご覧ください。「(17)七十二人が喜んで帰ってきて言った、「主よ、あなたの名によっていたしますと、悪霊までがわたしたちに服従します」。

 

 昔からの諺に「虎の威を借りる」というものがあります。自分はたとえ弱くても、虎のように強い人が一緒にいてくれるなら怖いものなんか無いぞ、という意味ですけれども、まさに72人の弟子たちは「虎の威を借りる」ように主イエスの御名によって悪例の支配に挑み、そして見事に勝利をしたわけです。つまり、町々村々において、悪例に取りつかれていた人々を主イエスの御名によって癒したわけです。それで、彼らは得意満面でカペナウムに戻ってきたわけです。いわば「イエス様、あなたは本当にすごいお方です」と口々に申したわけです。それが更に「どうだ、俺たちは凄い力を持っているんだぞ」という自信に変わっていたのです。

 

 ようするに「虎の威を借りていた」自分たちがいつのまにか「俺たちって凄い」という自信と自惚れへと摩り替っていったのです。この弟子たちの浅ましい様子をご覧になって、主イエスは彼らに18節以下の御言葉をお語りになりました。もう一度そこを読んでみましょう。「(18)彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。(19)わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。(20)しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

 

 私はこの御言葉を読むたびに、かつての神学校時代のことを思い起こします。神学生は毎年7月半ばから9月半ばまでの約2ヶ月間を「夏期伝道」と申しまして全国各地の教会に遣わされて伝道のわざに励むのです。その夏期伝道へと派遣されるにあたって「夏期伝道壮行礼拝」なるものが行われ、そこで決まって読まれる聖書が今朝のこのルカ伝1017節から20節までの御言葉でした。もちろん、私などはたいした働きはできませんでしたから、この御言葉の72人の弟子たちのように得意満面で帰ってくるというようなことはございませんでしたけれども、神学生の中には「自分はこれこれこういうことをやってのけた」みたいな自慢話を滔々とする者もいなかったわけではありませんでした。

 

 そのようなある年の夏の終わりのこと、夏期伝道の報告をする会の中で、2年前に天に召された大住雄一君が‐彼は東大法学部を首席で卒業して、後に神学校の学長になった人ですが‐こういうことを語ったのです。「自分は初めて夏期伝道に遣わされたけれども、いま感じているのは大きな挫折感以外の何物でもない」と言うのです。特にそれを説教において痛感したというのです。私は彼に大きな共感を覚えました。私も同じような挫折感を経験したからです。しかし大住君という人の本領は次の言葉にあります。「だからこそ、私はただ主イエスの御力に全てを委ねて歩むしかない。それこそが真に神学的な歩みだと思う」。

 

 吉川英治の「宮本武蔵」という小説の中に、こういう場面が出てきます。京都一条下リ松における吉岡一門との決闘の前日、血眼になって刀を研いでいる武蔵に、一人の村の女性が話しかけるのです。「あなたは明日の決闘に必ず負けるでしょう」。武蔵は「なぜそんなことを言うのだ」と問い返しますと、女性はこう答えました「あなたからは人を殺すという緊張感しか感じられない。例えて言うなら張り詰めた糸のようなもので、それは必ず切れてしまいます」。そして女性は自分が大切にしていた琵琶を真っ二つに割って武蔵に見せ、そして言うのです。「ご覧くださいませ、琵琶の中身は空洞です」と。武蔵はそれを見てようやく悟るという筋書きですね。 私たちはどうでしょうか?。自分が、自分が、という自我によって心が満たされてしまっていて、神が奏でて下さる恵みの旋律を鳴り響かせる空洞であることを失っていることはないでしょうか?。

 

 主イエスははっきりと私たちに語って下さいました。今朝の18節以下です。「(18)彼らに言われた、「わたしはサタンが電光のように天から落ちるのを見た。(19)わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。(20)しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。

 

 私たちの葉山教会にとってとても大切な信仰の先達のひとりである植村正久牧師が、ある説教の中でこういうことを語っています。私たちキリスト者たるものは、自分の名を後世に残そうなどというケチ臭い名誉心を人生の価値観の基準としてはならない。なぜなら、そのような取るに足らぬ名誉欲など入りこむ隙間のないほど、私たちはキリストの御名によってすべての幸いと自由を与えられているからだ。これは植村牧師が今から120年ほど前に東京の一番町教会(今日の富士見町教会)で語られた説教の一節です。まさに当時の日本社会全体の、おそらく今日もなお続いている「名を立て身を上げる」「立身出世」の価値観に、植村牧師は真っ向から「否」を唱えているのです。それは「そのような取るに足らぬ名誉欲など入りこむ隙間のないほど、私たちはキリストの御名によってすべての幸いと自由を与えられているから」なのです。

 

 そして、私たちが今朝の御言葉によって聞き取るべき大切な福音の音信は、それだけに留まりません。どうか今朝の20節を改めて心に留めましょう。「(20)しかし、霊があなたがたに服従することを喜ぶな。むしろ、あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい」。ここで主イエスははっきりと「あなたがたの名が天に記されていることを喜びなさい」と言われました。この言葉には文法的に申しますならギリシヤ語のアオリスト(不定過去形)という特殊なテンス(時制)が用いられています。どういうことかと申しますと、これは既に一度かぎり完成された(成就された)出来事であると同時に、今もなお続いている出来事であるという意味をあらわす文章なのです。さらに申しますなら、これはあなたのために主が一度かぎり成し遂げて下さった救いの御業であると同時に、あなたを今現在において救う出来事であると告げられているわけです。これがギリシヤ語の不定過去という特殊なテンスです。

 

 あなたの名は既に天国の「救われた者の記名帳」に書き記されているのだ。あなたの名は既に天の永遠の教会の名簿に書き記されているのだ。それをなして下さるためにこそ、神の永遠の御子主イエス・キリストが、あなたの罪の全てを背負って十字架にかかって下さったではないか。主があなたのために全ての救いの御業を成し遂げて下さったではないか。それならば、あなたの名は既に天に書き記されているではないか。ここにおいて、私たちは同じルカ伝1229節以下の御言葉を思い起こすのです。「(29)あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。(30)これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。(31)ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。(32)恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」。

 

 そうです、永遠の御国の国籍を私たちひとりびとりに与えて下さることこそ、天の父なる神の御心なのです。そのために、神は独子イエス・キリストを世にお与えになり、御子の十字架による真の永遠の救いを、私たち一人びとりに、聖なる公同の使徒的なる教会(キリストの御身体)を通して、いまここにおいて与えていて下さる。まさにその恵みの事実においてこそ、私たちは心を高く上げて、新しい一週間の日々の歩みへと遣わされてゆく主の僕たちでありたいと思います。祈りましょう。