説     教         ヨブ記4245節   ルカ福音書101316

                   「真の悔改め」 ルカ福音書講解〔88

                  2021・10・03(説教21401928)

 

 今日、私たち一人びとりに与えられた福音の御言葉、ルカ福音書1013節以下を、改めて口語訳でお読みいたしましょう。「(13)わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう。(14)しかし、さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。(15)ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。(16)あなたがたに聞き従う者は、わたしに聞き従うのであり、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。そしてわたしを拒む者は、わたしをおつかわしになったかたを拒むのである」。

 

 これは、とても厳しい御言葉のように私たちには聞こえるのではないでしょうか。特にここには「わざわい」とか「悔改め」とか「さばきの日」とか「黄泉」とか「落とされる」とか「拒む」といったような、否定的な暗い言葉が連続して出てくるからです。そして、これらの暗く聞こえる言葉の中心にあるものは何といっても13節の「悔改め」という言葉なのです。「(13)わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちの中でなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰の中にすわって、悔い改めたであろう」。

 

 さて、私たちは「悔改め」と聞いたとき、どのような印象を心に抱くでしょうか?。多くの人は否定的な、暗い印象を抱くのではないでしょうか。つまり、今朝のこの13節以下の御言葉を聞いたときに抱く暗い印象と、それは重なり合うのではないでしょうか。それは一つには「悔改め」という日本語の持つ語感そのものが、私たちにネガティヴな印象しか与えないという理由があります。だいぶ以前のことですが「反省猿」というのが流行ったことがありました。猿回しの親分が猿に向かって「反省!」と言うと、猿は片手をついて反省のポーズをとった、それが面白いというのでテレビなどでしきりに取り上げられたものです。なにが言いたいかと申しますと、私たち日本人の多くが「悔改め」に抱くイメージは「反省」なのです。

 

 反省とは、その漢字そのものが示すように「みずからの間違った言動を顧みて改める」という意味です。つまりそれは、私たちが自分自身の内面に向き合うことです。自分自身の姿を見つめることだと言って良いでしょう。ちょうど鏡の前で自分の表情を確認するようなもので、他人から自分がどのように見えているかを自分自身に改めて問い、もしそれがおかしなものであったなら改める、改善する、取り繕う、それが「反省」という言葉の意味です。つまり、そこにあるものは自分と他者、そして自分と自分という平面的な人間関係です。つまり、自分も人間であるように、他者も同じように人間なのですから、そこにあるものは人間の内部に限定される関係、いわば「閉ざされた関係」であると言えるでしょう。まさにこの「閉ざされた関係」に関わることだからこそ「反省」という言葉には常にネガティヴな暗いイメージが付きまとうのではないでしょうか。

 

 それでは、主イエスは今朝の御言葉の中で、そういうことを私たちにおっしゃっておられるのでしょうか?。主イエスは私たちに「反省すること」を求めておられるのでしょうか?。そうではないと思います。主イエスがここで求めておられるのは悔改めであり、しかも「真の悔改め」が私たちの中に起こることです。そこで、改めて今朝の13節を見ますと、そこにコラジンとベツサイダという2つの町の名が記されています。これは古代ガリラヤ地方に存在していた「キルベト・ケラジ」と「ベト・サイダ=アラム語で漁師の町」という2つの町のことだと考えられています。私は実際にこの2つの町の遺跡を訪ねたことがありますが、主イエスのおられた時代にはかなり大きな繁栄した町であっただろうと想像される遺跡でした。

 

 ところが、人間というものは物質的に繁栄すると慢心を起こすものでして、コラジンもベツサイダも、主イエスが宣べ伝えた福音の御言葉を信じようとせず、却って主イエスを迫害して追い出すようなことをしたらしいのです。だからこそ主イエスはこの2つの町に対して「わざわいだ」とおっしゃっておられる。そこで大切なことは、この「わざわいだ」という言葉の意味です。これは元々のアラム語を直訳しますと「あなたは最も大きな不幸の中にいる」という意味です。つまり「わざわいだ」というのは呪いの言葉ではなく同情の言葉であり、審きの言葉ではなく癒しの言葉なのです。言い換えるなら「わざわいだ」とは「あなたは最も大きな不幸に囚われたままであってはならない」という意味の招きの言葉です。つまり、これは審きの言葉ではなく、慰めと回復への招きの言葉なのです。

 

 さて、13節と14節には「ツロ」と「シドン」という、当時の地中海沿岸にあった2つの都市の名が出てきます。これはペリシテ人の港湾都市であって、ユダヤ人から見るなら「呪われた異邦人の町」にすぎませんでした。主イエスはこの2つの港湾都市でも福音を宣べ伝えたことが福音書の記述によってわかるのですが、特にツロでは主イエスはマタイ伝1521節以下が示すように、一人の異邦人の女性の信仰を「あなたの信仰はまことに立派である」と褒めておられます。この事実はなにを示しているかと申しますと、自分たちは神に選ばれた民だと自負していたコラジンとベツサイダは、主なる神のまなざしから見るなら「わざわい=最大の不幸」の中にあったのに対して、選民ではなかった(つまり救われるはずがなかった)ツロとシドンの人々は、主イエスによって「あなたの信仰はまことに立派である」と言って戴けるような悔改めの実りを献げることができたという事実なのです。

 

 そこで私たちは、いよいよ今朝の御言葉の核心部分に迫らなければなりません。それは「反省」と「悔改め」の違いは何かということです。コラジンとベツサイダは「反省」はあったかもしれませんが「悔改め」はしなかった町でした。その逆に、ツロとシドンは「反省」ではなく「悔改め」を行った町でした。この違いは決定的なものなのです。なぜなら「反省」が人間どうしの平面関係に関わることであるなら、「悔改め」とは主なる神と私という垂直関係に関わることだからです。このことをひとつの譬えで申しますなら、人間どうしの問題の本当の解決は人間の才能や努力や思想の中には無いのであって、その問題が難しければ難しいほど、その本当の解決のためには垂直次元における別の視点が不可欠なのです。例えば、ドストエフスキーの小説を読みますとその暗さ、救いのない絶望に最初は驚かされます。読んでいてだんだん気が重くなります。しかし読み進めて参りますと、垂直次元における別の視点が現れるのです。こんなに暗い絶望的な人間の問題に救いがあるのだろうかと思われるような出来事にも、ドストエフスキーは見事な解決への道を示します。それは何かと申しますと、真の悔改めという垂直次元における新しい道なのです。

 

 「悔改め」を意味するヘブライ語は幾つかあるのですが、その代表的なものはシューブ(テシューバー)という言葉です。主イエスも今朝の御言葉をお語りになったとき、このシューブというヘブライ語でお語りになられたことは確かです。その意味は「神に自分を委ねること=神に立ち帰ること」です。「反省」は自分の内面を見つめることですが「悔改め」は自分を離れて(自分を主としないで)神に自分を委ね、神に立ち帰ることです。水平次元に自分を委ねるのではなく、垂直次元に自分を委ねるのです。そして、それこそが私たちがなすべき「真の悔改め」であり、そこにこそ、私たちがあらゆる人間の問題において真の解決を見出すことができる唯一の道があるのです。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書のヨブ記4245節には、ヨブの悔改めの様子が記されています。「(5)わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。(6)それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。ここで大切なことは、ヨブは5節の後半において「今はわたしの目であなたを拝見いたします」と語っていることです。これは3500年前にヨブという名の人間がいて、神を見るという不思議な経験をした、ということを語っているのではありません。そうではなくて、永遠にして聖なる神ご自身が、十字架の主イエス・キリストが私たち全ての者のためになして下さった救いの御業によって、私たちに御自身の永遠の愛を現わし示して下さった。そのことによって私たちははじめて「真の悔改め」へと導かれるのです。

 

 言い換えるなら、まず神の愛と救いの恵みが私たちに現わされ、そのことによって私たちは真の悔改めへと導かれるのです。まず十字架の主イエス・キリストによる測り知れない恵みによる招きがあって、私たちはその主の御招きに喜び勇んで聴き従い、自分を神に委ねる幸いに生きる者とされてゆくのです。そのとき、主の御手はいかなる時にも私たちを堅く支え、永遠の御国へと導いて下さいます。主はいかなる時にも私たちから離れることはなく、私たちを終わりの日まで硬く支え、ついには永遠の御国の永遠の幸いへと導き入れて下さるのです。祈りましょう。