説     教         詩篇5045節   ルカ福音書10512

                  「伝道者の姿勢」 ルカ福音書講解〔87

                  2021・09・26(説教21391927)

 

 「(5)どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。(6)もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう」。今朝の御言葉であるルカ伝105節以下は、まずこのように始まっています。主イエスはここでこそ伝道者たる弟子たちが出会う全ての人に対してなすべき真の挨拶の言葉をお教えになるのです。それは「平安がこの家にあるように」という挨拶です。ヘブライ語で申しますならシャロームという挨拶の言葉です。伝道者として神に召された者は、シャロームという祝福の挨拶を携えて人々のもとに出てゆくのです。

 

それは神の御言葉を宣べ伝える務めであり、全ての人々に御言葉による真の自由と幸いの道を伝えることです。その場合大切なことは、主イエスは弟子たちに、その「平安の挨拶」はそもそもあなたの中に(つまり人間自身の中に)元から本来的に備わっていたものなどではない、そうではなくて、それは主なる神からの賜物なのだとはっきりとお教えになっておられることです。だからこそ6節にありますように「もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。もしそうでなかったら、それはあなたがたの上に帰って来るであろう」と言われているのです。

 

 これは、どういうことかと申しますと、伝道者たるキリストの弟子が宣べ伝える言葉は、人々の人生を少し豊かにするためのプラスαなどではないということです。つまり、人間の経験や認識の上に少し新しい経験や認識を付け加えることではないのです。そうではなく、それは本来的に全ての人々が持っていないもの、そして持っていないにもかかわらず、全ての人が心の底から求めているものなのです。つまり、人間は誰でも本来的に神の御言葉を求めているのです。その、全ての人間の持つ本来的な要求を伝道者たるキリストの弟子は満たすものであらねばなりません。

 

 今朝の御言葉の続く7節以下を読みましょう。「(7)それで、その同じ家に留まっていて、家の人が出してくれるものを飲み食いしなさい。働き人がその報いを得るのは当然である。家から家へと渡り歩くな。(8)どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えてくれるなら、前に出されるものを食べなさい。(9)そして、その町にいる病人を癒してやり、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」。これはどういうことかと申しますと、伝道者たるキリストの弟子は、日常生活のすべてを主なる神の御手にお委ねする者でありなさいということです。これを言い換えるならば、伝道者の日常生活において必要なものは全て神が備えて下さるということです。だからただ神を信頼してあなたの全てを委ねなさい、自分の生活に関して思い煩ってはならないということです。

 

 最後に10節以下を心に留めたいと思います。「(10) しかし、どの町へはいっても、人々があなたがたを迎えない場合には、大通りに出て行って言いなさい、(11)『わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい』。(12)あなたがたに言っておく。その日には、この町よりもソドムの方が耐えやすいであろう」。この10節以下の御言葉を改めて読むとき、私たちは「これはずいぶん厳しい御言葉だ」と感じるのではないでしょうか。それは特に11節の「わたしたちの足についているこの町のちりも、ぬぐい捨てて行く。しかし、神の国が近づいたことは、承知しているがよい」という言葉に、私たちは異常なほどの厳しさを感じ取るからです。

 

 それだからこそ、私たちは同じ新約聖書の使徒行伝2026節以下の御言葉を心に留めたいと思うのです。「(26)だから、きょう、この日にあなたがたに断言しておく。わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。(27)神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである。(28)どうか、あなたがた自身に気をつけ、また、すべての群れに気をくばっていただきたい。聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである」。これは使徒パウロがエーゲ海に面したミレトの港からヨーロッパへと船出するにあたって、愛するエペソの教会の長老たちを呼び寄せて語った「訣別の説教」の一部分です。

 

 この説教の中で使徒パウロは「(26)わたしは、すべての人の血について、なんら責任がない。(27)神のみ旨を皆あますところなく、あなたがたに伝えておいたからである」と語っています。まさにこの御言葉と今朝のルカ伝1010節以下の御言葉は重なるのではないでしょうか。これは使徒パウロが「私は語るべき神の言葉をすべて語ったから、あとは何が起こってもそれを聞いた者たちの責任だ」と言っているのではありません。そうではなくて「私は神から託された伝道者としての責任をすべて果たした」と言い切っているのです。その結果どういうことが起こるかと申しますと、そこには真の教会が形成されてゆくのです。それはキリスト告白の共同体であり、キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会です。

 

 それならば、そこに私たちが驚くほどの厳しさが伴うのはむしろ当然のことなのではないでしょうか?。だからこそ使徒パウロは使徒行伝2032節において、エペソの教会の長老たちにこのように語っています。「(32)今わたしは、主とその恵みの言とに、あなたがたをゆだねる。御言には、あなたがたの徳をたて、聖別されたすべての人々と共に、御国をつがせる力がある」。だから、もし伝道者を定義するならばこう言うことができるでしょう。「伝道者とは、生ける神の御言葉に全てを委ねて進むキリストの御身体なる教会を形成するために、神の御言葉としての説教を正しく宣べ伝え、全ての人々に真の祝福と自由と幸いを宣べ伝えるキリストの弟子である」。神の御言葉は説教を通して人々に宣べ伝えられるのです。言い換えるなら、神の御言葉のみを宣べ伝える説教を語る者こそが真の伝道者なのです。

 

 これをさらに申しますなら、真の伝道者は少しも自分自身を宣べ伝えないのであって、ただ神の御言葉のみを宣べ伝えるのです。このことについて一つのエピソードを紹介して終わりたいと思います。今から130年ほど前の明治25年のこと、明治学院の初代院長であったカーチス・ヘボン宣教師が海老名弾正と植村正久の説教についてこのように語りました。「海老名先生の説教はとても上手である。彼は雄弁家である。しかし彼の説教を聞いていると、海老名先生が前面に出てきて、キリストが後ろに引っ込む。それとは逆に、植村先生の説教はとても下手である。彼は少しも雄弁家ではない。しかし彼の説教を聞いていると、植村先生が後ろに引っ込み、キリストが前面に出てくる」。

 

 実際に、植村正久という人は、若い頃から訥弁であったらしい。神学校(ブラウン塾)の卒業試験において、説教の課題が課せられたとき、植村正久はとてもたどたどしい説教をしたので試験に落第しそうになりました。そのとき友人の井深梶野助(ヘボンの次に明治学院の院長を務めた人)が助け舟を出しました。「植村君はたしかに説教は下手かもしれません。しかし彼は説教することが三度の飯より好きなんです。どうか彼の卒業を認めてやって下さい」。その甲斐があってようやく伝道者になることができた植村正久牧師、そして生涯を真の伝道者として生き抜いた植村正久牧師の信仰の系譜を、私たちの葉山教会は直接に受け継いでいるのです。

 

 私は最近になって、いよいよ確信を深めたことが一つあります。それは、もしも伝道とは何かと問われるなら、それは「キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会を形成すること」だということです。よく教勢を拡大すること、信徒の数をふやすこと、教会にたくさんの人を集めることが伝道の前進であると言われます。私はそれは違うと思う。もちろん教勢を拡張することも大切かもしれない。しかしそれ以上に大切なことは、十字架と復活のキリストの御身体なる聖なる公同の使徒的なる教会がここに建てられてゆくことです。そしてその地域に住む全ての人々に神の御言葉が、すなわち人間をして救いにあずからしめ、真の自由と幸いと祝福を与える唯一の神の御言葉が、正しく健やかに宣べ伝えられる真の教会が形成されてゆくことです。そのような伝道の御業に仕えることこそ、昔も今も変わらぬ伝道者の姿勢なのです。祈りましょう。