説     教         創世記281617節   ルカ福音書1034

                  「挨拶の教え」 ルカ福音書講解〔86

                  2021・09・19(説教21381926)

 

 「(3)さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。(4)財布も袋もくつも持って行くな。だれにも道であいさつするな」。これが今朝、私たち一人びとりに与えられている主の福音の御言葉です。これは主イエスが72人の弟子たちを伝道のわざへとお遣わしになるにあたり、その心得としてお教えになったものです。そこで、ここで特に私たちの心をひきつける御言葉は4節の「だれにも道であいさつするな」ではないでしょうか?。これは読み間違いではありません。主イエスはたしかに弟子たちに対して、町々村々に伝道をするにあたって「だれにも道であいさつするな」と語っておられるのです。否、これは命令形の言葉です。つまり主イエスは「だれにも道であいさつしてはならない」と語っておられるのです。

 

 さて、日本人は挨拶について口やかましい国民だとよく言われます。たしかに小学校などの学校教育の場においても「挨拶をしましょう」ということが子供たちによく言われるようです。社会人になってからも、職場やあらゆる人間関係において、きちんと挨拶ができるということが社会人としての常識(最低限のマナー)のように考えられています。私はかつて幼稚園の園長をしたことがありますが、幼稚園教育の場においてさえ「みんなで挨拶いたしましょう」という言葉がまるで標語のように言われていたものです。いわば日常の挨拶はあらゆる人間関係における潤滑油のようなものであって、挨拶がよく出来ない人がたまにおりますと、たちまち周囲の人々からは「あの人は挨拶もろくにできない人だ」と後ろ指をさされ、陰口を言われるようになる、そのような雰囲気があるのではないでしょうか。

 

 しかし、もちろん挨拶することは良いことなのですけれども、それが社会の一種の規範のような雰囲気になりますと、どのようなことが起こるかと申しますと、意味のない(心の伴わない)形式だけの挨拶が日常生活の中で無意識に飛び交うという結果にもなるのではないでしょうか。それは、別の言い方をするなら、挨拶の自己中心化という現象が起こるのです。どういうことかと申しますと、挨拶さえきちんとしておけば自分は共同体の一員(社会人)として認めてもらえるんだという軽薄な安心感と表裏一体の自己中心主義です。ようするに自分を良く見せたいがための挨拶なのであって、相手を祝福するための挨拶ではなくなっている、そういう自己中心主義の形式的な挨拶が虚しく飛び交っていることはないでしょうか?。

 

 そこでこそ、私たちは改めて今朝の4節に記された主イエスの御言葉「だれにも道であいさつするな」に正しく向き合わねばならないと思うのです。私がかつてイスラエルに参りました時、最も印象深く感じたのは日常に取り交わされている挨拶の言葉でした。ユダヤ人でしたらヘブライ語で“シャローム=שָׁלוֹם”アラブ人でしたらアラビア語で“サラーム”という挨拶を交わします。それは共に「神の平安があなたにありますように」という意味です。つまりそこでは挨拶は相手のために神の祝福を祈るという明確な意味を持つのです。しかしこのシャロームという挨拶の言葉は西暦3世紀頃に確立したもので、それ以前の挨拶の言葉はどうであったかと申しますと、それはやはり日本と同じような自己中心的かつ形式的なものだったようです。ようするに時候の挨拶に過ぎなかったわけです。

 

 私は30年ほど前まで約10年間にわたって、もう故人になられましたけれども、当時ルーテル神学校の名誉教授であった吉永正義牧師(この先生は本当にドイツ語のよく出来るかたであり、バルト神学の優れた研究者でした)のもとで毎週月曜日に開かれていたカール・バルトの教会教義学の読書会に通っていたことがあります。もちろんドイツ語の原文で読むのです。これはとても楽しい読書会でして、私は埼玉県の飯能という町まで片道2時間半かけて通い続けたものです。そこに出席していたのは改革派教会、聖公会、ルーテル教会など、いろいろな教派の牧師たちが常時7,8人集まっていました。そのようなある日の読書会において、一人のルーテル教会の牧師先生がこういうことを言われたのです。それはまさに今朝のルカ伝104節の釈義をバルトがしている箇所を巡る語り合いの時でした。その牧師先生が言われますには、自分が牧師を務めている教会ではまず礼拝の前に牧師が会衆に向かって「皆さんおはようございます」と挨拶するのが習わしになっていたけれども、自分は今後はもういっさいそのような挨拶はしないことに決めたとおっしゃったのです。これはとても印象ぶかい思い出です。

 

 なぜ印象ぶかかったかと申しますと、私はその時はっきりと主イエスのこの御言葉の意味を教えられたように感じたからです。「だれにも道であいさつするな」。ここで主イエスが問うておられる「挨拶」とは相手に対する祝福(つまりシャローム)ではなく、自己中心主義に基づくまさに私たちが日常している挨拶のことです。主イエスは弟子たちにはっきりと問うておられるのです。「あなたはいかなる言葉を携えて町々村々に行こうとしているのか?」と。人々に対する真の祝福、すなわち福音の御言葉のみを携えて行こうとしているのか、それとも自己中心主義に基づく虚しい挨拶の言葉を携えて行こうとしているのか?。もしあなたが後者の挨拶を携えて行こうとしているのなら、あなたは私の弟子ではないと主イエスははっきりとおっしゃっておられるのです。

 

 言い換えるなら、主イエスがおっしゃっておられるのはこういうことです。あなたがたが町や村に入ったとき、そこでまず語るべき言葉は福音であり、祝福の祈りでありなさい。決して、自分を良く見せたいがための虚しい挨拶の言葉などであってはならない。さらに言いますなら、それは「あなたはいったい誰に仕えているのか」という、主イエスの弟子たるものの本質を問う問いにも繋がっているのです。あなたは人間に仕えている人間の僕なのか、それとも、神にお仕えする神の僕なのかという本質的な問いです。それは、伝道者たるものだけに問われていることではなくて、いまここに集うている私たち全ての者に主が問うておられる最も大切な問題なのではないでしょうか?。

 

 今朝、併せてお読みした創世記281617節にこのようにございました。『「(16)ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。(17)そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」』。ヤコブは人間的な卑劣な策略によって兄エサウが受け継ぐはずの長子の祝福を奪ったため、荒野に追放される身になってしまいました。それは祝福の挨拶を失った絶対的な孤独の人生であり、絶望と死だけがヤコブに残された唯一の道でした。しかしそのような荒野の放浪の旅の中で、ある日ヤコブは不思議な幻を見るのです。それは荒野のただなかに天に通じる階段が現れ、そこを天使たちが上り下りしているビジョンでした。そしてこの幻を示されたとき、ヤコブは初めて気が付いたのでした。自分の人生は絶望と死だけが支配していると思い込んでしたけれど、実はそうではなく、神の愛と祝福が豊かに注がれている人生であるという事実です。

 

 それでヤコブは石の枕を立てて記念碑としまして、なにを行ったかと申しますと、それは神への礼拝でした。その真の礼拝においてこそ、ヤコブはこう言ってただ神の御名を崇めたのでした。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。ここに集う私たち一人びとりにも、まったく同じ神の愛と祝福が、十字架の主イエス・キリストによる罪の贖いの恵みによって注がれているのです。そこでこそ、私たちはこの人生の意味と世界の本質に初めて気が付く者とされます。「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。これはどういうことかと申しますと、この気付き(すなわち神への信仰)が与えられて、はじめて私たちは「祝福としての真の挨拶」を回復してゆく者とされるのです。

 

 私たちキリスト者にとっての挨拶は、自己中心主義から生じる自己実現のための虚しい言葉ではありえません。そうではなく、私たちがなすべき真の挨拶は、十字架の主イエス・キリストの恵みに基づく、すべての人々に対する祝福の挨拶なのです。ヤコブはこのことに気が付いたからこそ、ヤボクの渡しを超えてユダヤに戻り、兄エサウと和解する幸いを与えられました。ヤコブという名前はヘブライ語で「欺く者」という意味なのですが、この創世記28章の出来事を経た彼に神は「イスラエル」すなわち「神のご支配」という新しい名をお与えになりました。私たち一人びとりもまた、十字架の主イエス・キリストの恵みによってのみ、欺く者であることを辞めて、神のご支配のもとに生きる僕とならせて戴けるのです。そこでこそ、私たちがなすべき真の挨拶の言葉もまた回復してゆくのです。他者に対する祝福の挨拶に生きる僕とならせて戴けるのです。祈りましょう。