説     教           エレミヤ書18節   ルカ福音書95962

                  「われに従え」 ルカ福音書講解〔84

                  2021・09・05(説教21361924)

 

 「(59)またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。(60)彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。(61)またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。(62)イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。

 

 今朝の主イエスの御言葉は、私たちにとってはやや厳しいもののように感じられるかもしれません。まず59節には「まず、父を葬りに行かせてください」と願う人に対して、主イエスは「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と語っておられます。続く61節を見ますと「まず家の者に別れを言いに行かせてください」と願う人に対して、主イエスは「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」と語っておられるのです。

 

そこで、父親の葬儀への出席にせよ、愛する家族との別れの挨拶にせよ、それはある意味において私たちの人生にとって「最も大切な場面」であり「一大事」なのではないでしょうか。その大切な願いを、主イエスは無碍に退けておられるように見えるのです。これは、いったいどういうことなのでしょうか?。

 

 そこで、私たちは今朝のこの2つの御言葉の意味を正しく知るために、59節に記されている主イエスの御招きの言葉を改めて読み解く必要があると思うのです。それは「わたしに従ってきなさい」という御言葉です。これは元々のギリシヤ語を英語に翻訳しますとCome and follow meになります。つまり「私のもとに来て、私に従ってきなさい」という意味の言葉です。つまりこれは「来る」と「従う」の2段構えになっている言葉なのです。そしてこのことは、私たち全ての者にとって、とても大切な信仰生活のありかたを教え示している御言葉なのです。

 

 まず私たちは、主イエスがこの2人の人に対して「私のもとに来なさい」と告げておられることに注目したいと思います。これは、ちょっと考えると変な言葉(不思議な言葉)なのではないでしょうか?。なぜなら、この2人の人たちはいずれも主イエスのもとに既に来ているのであって、主イエスのもとに既に来ているからこそ「あなたに従いますけれども、まず父親の葬儀に行かせて下さい」あるいは「あなたに従いますけれども、その前に家族に別れの挨拶をさせて下さい」と願い出ているわけです。ところが主イエスは彼らに対して「(あなたは)私のもとに来なさい」と呼び掛けておられる。これはいったい、どういうことなのでしょうか?。

 

 先週、ある用事がございまして、私は藤沢教会の黒田牧師と電話でかなり長い時間会話をしておりました。その話の中で、3年前の8月11日に天に召された私の親友、水野穣牧師のことに話が及びました。黒田牧師は静岡の教会にいらした頃に、当時浜松教会におりました水野牧師から親しくいろいろな指導や助言を受けていた人です。その水野牧師の話が出たときに、黒田牧師は私にこう言うことを言ったのです。「先生、水野先生はいつも“クリスチャンには2種類の人たちがいる”と言っておられたのを知っていますか?」。それを聴いて私はたちまちかつての水野君の声を思い起こしました。水野君はあるとき私との会話の中でこう言っていたのです。「一口にキリスト者と言っても、実はそこには2種類の人たちがいる。自分が中心である人と、キリストが中心である人だ」。私がそのことを黒田先生に話しますと、彼は「そうですよね。水野先生の言葉はとても深いと思います」と答えました。私もその通りだと思いました。

 

 私たちは一口に「キリスト者(クリスチャン)と呼びあらわしますけれども、実はそこには2種類の人たちがいるのではないでしょうか?。それは自分が主である人と、キリストが主である人です。これに「のみ=ラテン語のsolus」を付けたらより明確になるかもしれません。私たちキリスト者には2種類の人たちがいるのです。第一に、いつも自分のみを主とする人。第二に、いつもキリストのみを主とする人。そこで、いつも主ご自身が私たち一人びとりに訊ねておられます。「あなたはどちらのキリスト者なのか?」と。私たちは、どちらのキリスト者なのでしょうか?。いつも自分のみを主とするキリスト者なのか、それとも、いつもキリストのみを主とするキリスト者なのか。

 

 実は、水野牧師の言葉には続きがあるのです。「自分のみを主とするキリスト者は、自分が無くなったらそれで全てが終わる。しかしキリストのみを主とするキリスト者は、自分が無くなったら、そこから新しい出発をするのだ。なぜなら、キリストのみが永遠に主にいましたもうからだ」。水野君は癌との闘病生活の中で瀬戸内海の直島教会の新会堂建築という大きなわざを成し遂げたのですが、それはまさに、彼自身がキリストのみを主とする本物のキリスト者だったからだと思います。自分の無力さと限界の向こうから「私のもとに来なさい」と呼び掛けていて下さる主イエス・キリストの御声に自分の全てを献げて従ったのです。そこに、人知を超えた神の御業が現れたのです。

 

 父親の葬儀に行かせて下さいと願い出た人も、家族に別れの挨拶をさせて下さいと願った人も、その動機はまことに至極ごもっともであって、そこにはなんの非難されるべき点はありません。主イエスもそれを無碍に退けておられるのではないのです。そうではなくて、主イエスはこの2人の人に(つまり私たち一人びとりに)あなたの唯一の主はいつも誰なのかと問うておられるのです。私たちはどうでしょうか?。私たちこそ今朝のこの2人の人のように、自分にとって大義名分である出来事を振りかざして隠れ蓑にしつつ、自分だけが主であることを隠そうとしていることはないでしょうか。私たちはむしろ、どのような事情がありましょうとも、それを含めて主イエスの御手に全てを委ねきる幸いを与えられているのではないでしょうか。あとのことは全て主にお委ねすれば良いのです。主が私たちの限界や弱さを超えて、しかも私たちを豊かにお用いになって、御業を現わして下さるのです。

 

 今朝、併せてお読みしました旧約聖書・エレミヤ書18節を改めて心に留めましょう。「(8)彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。エレミヤが主なる神から預言者としての召命を受けたのは、彼がまだ20歳そこそこの時のことでした。それでエレミヤには、こんなに若く未熟な自分が預言者の務めを果たせるはずがないと思い、大きな躊躇いと恐れを抱いたのでした。そのエレミヤに主なる神は言われます。同じ1章の6節以下をお読みします。「(6) その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。(7)しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。(8)彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる」。

 

 主は言われます。「彼らを恐れてはならない」と。私たちが真に畏れるべきかた、それは唯一の主なる神以外にありません。まさに唯一の主を「わが主・救い主」として信じ告白するところから、私たちは続く主イエスの御声を正しく聴く僕とされてゆくのではないでしょうか。それは「私に従ってきなさい」との御声です。これは恵みによる招きの言葉です。本来的に言うならば、主イエスにお従いするどころか、御前に立ちえざるわたしたちであったはずです。それにもかかわらず、ただ限りない愛と恵みによって、私たち一人びとりに主は御声をかけていて下さるのです。「われに従え」と。そして「私のもとに来なさい」と「私に従ってきなさい」この2つの言葉を読み解くなら、このような意味になるのです。つまり、主イエスはこのように私たちに語っておられます。「わが子よ、あなたの罪は私が贖った。あなたのために、私は十字架にかかった。だから、あなたは何も恐れる必要はない。私が贖い主として、いつもあなたと共にいるからだ。だから安心しなさい。勇気を出しなさい。そして、あなたは私に従ってきなさい」そのように主は、私たち全ての者に語り掛けていて下さるのです。私たち一人びとりを生命の道へと招いておられるのです。

 

 だから、私たちは躊躇わずに、主に全てを委ねて、お従いする僕であり続けようではありませんか。私たちの唯一の主は、私たちの唯一の贖い主は、私たちのために十字架への道を歩んで下さった神の御子・主イエス・キリストだからです。祈りましょう。