説     教           箴言1613節   ルカ福音書95758

                  「キリストに従う道」 ルカ福音書講解〔83

                  2021・08・29(説教21351923)

 

 「(57)道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。(58)イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。 主イエス・キリストがエルサレムをめざして旅立たれた時、ユダヤと対立していたガリラヤの人々は、その主イエスのエルサレム上京を快くは思いませんでした。ですから主イエスと弟子たちの一行は、立ち寄る先々の村や町において歓迎されず、あたかも石もて追われるような酷い扱いを受けたのです。ところが、そのようなある日のこと、一人のガリラヤ人が主イエスのもとに走り寄って参りまして、そして申しますには「(57)あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。つまり、主イエスの弟子に加えて欲しいと願ったということが今朝の御言葉からわかるのであります。

 

 では、この奇特な人に対して主イエスはどのようにお答えになったのでしょうか?。今朝の御言葉の58節をご覧ください。「(58)イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。なにやら禅問答のような言葉でありますけれども、主イエスはこの人の熱意を退けられたのではありません。そうではなく、覚悟のほどを問うておられるのです。その覚悟と申しますのは「キリストの弟子たるの覚悟」であり「キリストに従う道の険しさ」であります。なによりもこの58節において主イエスは「(58)きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」とおっしゃいました。

 

イスラエルに参りますと、野生動物の保護区が国の至る所に設けられていることに驚かされます。最初、私はイスラエルという国は国土の90%以上が乾燥地帯であり砂漠地帯ですから、手厚く保護しないと野生動物はすぐに絶滅してしまうのだと思っていました。ところがなかなかどうして、砂漠地帯に生息する野生動物というのは非常に強いのです。私が特に印象深く覚えておりますのは、ヨルダン川でペリカンの群れを見たことです。数千羽のペリカンの群れが空を舞う様子は圧巻でした。私は日本野鳥の会の特別名誉会員なのですけれども、イスラエルのペリカンが地中海を越えてヨーロッパ大陸の各地に飛んでゆくことを知って改めて驚きました。それに較べるなら人間はなんと弱く頼りない存在だろうかと思わずにいられませんでした。

 

 イスラエルにおいて動物でよく見かけたのは、まずイワダヌキ、これは道ばたに寝そべっている姿をよく見かけました。それから今朝の御言葉に出て参ります砂漠のキツネ、これは砂漠に穴を掘って巣を作り、その中で子育てをします。このキツネは基本的に夜行性ですが運が良ければ昼間でも見かけることができます。そして大きな角を持つアイベックスというヤギの仲間によく出遭いました。これは旧約聖書において「野山羊」と記されている動物です。それから砂漠に住む大型の亀(レバントギリシャリクガメ)にも出遭いました。このように、私の印象で申しますなら、イスラエルという国は鳥や動物や植物において非常に興味ぶかい国だと思いました。(植物の話をひとつだけしますと、私はイスラエルで野生のシクラメンと野生のチューリップの群落を見ました。この2つの植物はたぶんイスラエルが原産国か、または原産国に非常に近い国だと思います。

 

 そこで、私たちは改めて、主イエス・キリストは本当によく野生動物のことを見ておられ、またご存じでいらしたと思わずにおれません。主イエスは創造主なる神の永遠の御子であられ、神と本質を同じくしたもうかたですから、被造物である野生動物に誰よりも詳しいのは驚くことではないかもしれません。むしろ私たちが今朝の御言葉において驚かざるをえないのは、主イエスがこの58節において「(58)きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」とはっきりおっしゃっておられることです。ここで主イエスが言われる「人の子」とは御自身のことをさしておられます。つまり主イエスはこの58節において、ご自分が天涯孤独の身であられること、そしてそのようなご自分に従いたいと言うのなら、あなたもまた同じように天涯孤独の身の上にならざるを得ないと、そのように彼に語っておいでになるのですけれども、ただそれだけではないように思います。

 

 ここがとても大切なことなのですが、主イエスが私たちにお語りになった御自身の天涯孤独とはどのような状態のことなのかということです。主イエスは、それは文字どおり、きつねや空の鳥にさえ与えられていることさえも与えられないほどの徹底的な孤独なのだと語っておられるのです。それはいったいどういうことでしょうか?。私は先日、久しぶりにマタイ受難曲を全曲聴く機会がありました。カール・リヒターの指揮による、ペーター・シュライアーがエヴァンジェリストを務めている1971年の録音です。それを聴いていて、私は改めてバッハが本物の信仰を持っていた人であったことを強く感じました。特に最初のコラールの中にあるこの言葉が大切だと思いました。それは“Sehet ihn aus Lieb und Huld, Holz zum Kreuze selber tragen”「見よ、あのお方(主イエス・キリスト)が、私たちに対する愛と慈しみによって、十字架となる木を自ら背負いたもうお姿を)

 

 私たちはいつでも、どこにいても、何があっても、あのお方(主イエス・キリスト)からまなざしを離さないでいようではないかとバッハは語るのです。それはなぜかと申しますと、主イエス・キリストのみが「私たちに対する愛と慈しみによって、十字架となる木を自ら背負いたもう」かただからです。これは言い換えるなら、私たちは自分の罪によって主イエス・キリストに十字架となる木を背負わせたのだということです。しかも私たちはその大きな罪を自覚することさえできずにいるのです。私たちは自分が本当に神の御前に大きな罪人であることを自覚できていないのではないでしょうか。それどころか、私たちはいつも自分を正当化し、自分を擁護し、あたかも自分だけが世界の中心であるような傲岸不遜な生き方をしているのではないでしょうか?。

 

 それならば、主イエスは「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」と言ったこの人にこうおっしゃっておられるのです。「あなたは私の行くところに、どこにでも従ってくると言うのか?。しかし覚えておきなさい、キツネには穴があり、空の鳥たちには巣があるけれども、人の子である私には枕を置く場所さえないのだ。私がエルサレムに行くのはイスラエルの王になるためなどではない。そうではなく、私は全ての人の罪のために、十字架を背負って死ぬためにエルサレムに行こうとしているのだ。その私を、あなたは信じるか?」そのように主はこの人に、否、ここに集うている私たち一人びとりに問うておられるのです。

 

 先ほど引用しましたバッハのマタイ受難曲ですが、よく解説本などには「バッハが作曲したミサ曲である」というようなことが書いてあり、音楽評論家の中にも同じようなことを言う人がいるのですが、これはローマ・カトリック教会のミサとは全く違った形式を持つ音楽であり、むしろプロテスタントのルター派教会の伝統に従って作曲された受難曲です。従ってバッハはこのマタイ受難曲で徹底的に十字架のキリストのみにまなざしを集中しています。それと同じ路線に従って今朝の御言葉を読み解きますと、私たちはまさに今朝の957,58節の御言葉が、十字架のキリストのみにまなざしを集中している事実に気が付くのではないでしょうか。“Sehet ihn aus Lieb und Huld, Holz zum Kreuze selber tragen”「見よ、あのお方(主イエス・キリスト)が、私たちに対する愛と慈しみによって、十字架となる木を自ら背負いたもうお姿を」。

 

マタイ受難曲の中の有名なコラール「主よ人の望みの喜びよ」はこのように歌われています。Jesus bleibet meine Freude,(イエスは私の変わらぬ喜びであり続け) meines Herzens Trost und Saft,(私の慰めであり幸いであり続ける) Jesus wehret allem Leide,(イエスは私を全ての悩みから救い出して下さるゆえ) er ist meines Lebens Kraft,(彼は私の人生の力そのもの) meiner Augen Lust und Sonne,(そして私の目の喜び、そして太陽であり) meiner Seele Schatz und Wonne;(私の魂の比類なき宝、そして喜びであり続ける) darum laß' ich Jesum nicht (それゆえ、私は決してイエスから離れません) aus dem Herzen und Gesicht.(私の心とまなざしはいつも主に注がれています)

 

 これは決して、300年前のバッハの作曲であるに留まりません。いま聖霊によって現臨したまい、私たちの只中に救いの御業を現わして下さる十字架の主イエス・キリストによって、これと同じ信仰のまなざしをもって、私たちは主を仰ぐ僕たちとされているのです。今朝の御言葉をもういちど心に留めて終わりましょう。「(57)道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。(58)イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。まさにこの天涯孤独の唯一の道を、ゴルゴタの十字架へと続く道を、ただ主イエス・キリストのみが歩んで下さいました。それゆえにこそ、いま私たちは共に新たな心と祈りをもって告白する僕たちとされています。「見よ、あのお方(主イエス・キリスト)が、私たちに対する愛と慈しみによって、十字架となる木を自ら背負いたもうお姿を」。まさにこのお方から、決してまなざしを離すことのない私たちであり続けたいと思います。祈りましょう。