説    教          伝道の書817節   ルカ福音書94950

                「主イエスの味方」 ルカ福音書講解〔81

                2021・08・15(説教21331921)

 

 「(49)するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。(50)イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。

 

 今朝、私たちに与えられたこの御言葉には2つの背景があります。まずそのことをご一緒に整理して参りましょう。第一の背景として、主イエスの十二弟子たちは、主イエスと共に道を歩みながら「(46)自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」について議論を戦わせていました。この弟子たちの身勝手な議論に対して、主イエスは一人の幼子を抱いて祝福なさり、そして弟子たちに「(48)だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」と言われたのです。それが今朝の御言葉の持つ第一の背景です。

 

 第二の背景として私たちが顧みたいことは、同じルカ伝の937節以下に記されている出来事です。主イエスが3人の弟子たちと共に山から降りてカペナウムの町に戻って来られたとき、残った9人の弟子たちが悪霊に取り憑かれた一人の少年を癒そうとしていましたが、どうしても出来なかった。それで、主イエスがその少年をお癒しになった出来事です。

 

 弟子たちがこの少年の病を癒せなかった理由は何だったのでしょうか?。ルカ伝941節はその理由を「(弟子たちの)不信仰」であったと記しています。主イエスに不信仰を指摘されることは、弟子たちにとって(つまり私たちにとって)とても幸いなことのはずです。私たちはそこで真の信仰に立ち帰る大きな機会を与えられることになるからです。ところが弟子たちはそれを人間的な恥として理解しました。そして弟子たちの中のある者たちは、そのことで主イエスに不平不満を(恨みを)抱いたと思われるふしさえあるのです。

 

 つまり、弟子たちは37節以下の出来事によって、自分たちの面子が潰された(主イエスによって恥を受けた)と考えたわけです。それで、弟子たちは潰されたその面子をなんとかして回復し汚名挽回をしなければならないと考えました。ようするに弟子たちは、主イエスに対する信仰の世界を人間的な面子の次元に変えてしまったのです。これは、私たちにとっても大いに自戒すべきことです。神の御言葉のみの支配を受けるべき場面で(主イエス・キリストに対する信仰のみが問われる場面で)人間的な価値観や打算や損失計算が表立ってしまう危険を、実は私たちの誰もが持っているのではないでしょうか。

 

 ともあれ、信仰によってではなく、人間的な価値基準によって行動していた弟子たちにとって、自分たちの汚名を挽回する絶好の機会が訪れたように思われたのが今朝の49節と50節の御言葉の場面でした。どういうことかと申しますと、ある一人の人が主イエスの御名によって病気の人たちや悪霊に取り憑かれていた人たちを癒していたのですが、弟子たちは、自分たちでさえできなかったことを、弟子でない他の人が(無許可で)行っていたことに憤り、その人に向かって「おまえはイエス様の弟子ではないのだから勝手なことをするな」と言って止めさせたのでした。49節をもう一度ご覧ください。「(49) 先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。

 

 弟子たちの価値基準によれば「自分たちでさえできなかった癒しを、弟子でない者がしているのは許せない、だから私たちは彼を止めました」という理屈になるわけです。弟子たちは当然、主イエスから「よくやった」とお褒めの言葉を戴けるものと思っていました。ところが、主イエスがお語りになったことは意外な御言葉でした。今朝の50節です。「(50) イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。

 

 繰り返し申します、弟子たちは自分たちの不信仰ゆえに、カペナウムで病人を癒やせなかったのです。ところがまことに皮肉なことに、弟子たちに出来なかったことを主イエスの御名によって見事に成し遂げていた人がいた。ここでこそ弟子たちの自尊心と高慢さが噴き出すのです。弟子たちの心は十字架に向かうイエスと一緒でないにもかかわらず、イエスの名による良きわざは自分たちの専有物で、イエスの御名による名声を独占したいという思いがここに噴出するのです。まさにそのような不信仰な弟子たちに、主イエスははっきりと言われます。「(50) イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。

 

 ここで大切なことは、主イエスが弟子たちに「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」とおっしゃっておられることです。これはどういうことかと言いますと、この「あなたがた」というのは教会のことをさしているのです。そして教会とは何かと言いますなら、教会は歴史の中に建てられたキリストの御身体であり「キリスト告白の共同体」です。つまり、教会は主イエス・キリストのみを唯一のかしらとして歩む「天国の出張所」であり、ただ恵みによって召された弟子たちの群れであり、主が下さる生命の糧に共にあずかる者たちの集い(聖徒の交わり)であり、礼拝の共同体です。ということは、どういうことになるのでしょうか?。つまりここで主がおっしゃっておられることの意味、つまり「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」とは、教会に反対しない人々(つまり教会の活動の邪魔をしない人たち、教会の悪口を言わない人たち)はすべて教会の味方である、ということなのです。

 

 使徒パウロはピリピ書115節以下においてこう語っています。「一方では、ねたみや闘争心からキリストを宣べ伝える者がおり、他方では善意からそうする者がいる。…すると、どうなのか。見えからであるにしても、真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」。当時、パウロの宣教活動を批判したり、パウロの人格を否定したり、中傷したりする人々が大勢いたのです。それはパウロの手紙を少し読めばすぐにわかることです。しかしパウロはこう言っているのです。「(18)真実からであるにしても、要するに、伝えられているのはキリストなのだから、わたしはそれを喜んでいるし、また喜ぶであろう」。たとえ誹謗中傷する人々によってであろうとも、キリストが宣べ伝えられるなら、それで充分だとパウロは言うのです。

 

 それは、なぜでしょうか?。おそらくその時のパウロの心の中には、今朝のルカ伝950節の主イエスの御言葉があったのだと思います。「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。パウロ個人のことを超えて、キリストが人々に宣べ伝えられ、そこで救いの御業が現わされるのなら、それこそがパウロの最大の願いなのです。いや、それ以上に、パウロにとっては十字架のキリストの恵みが人々に宣べ伝えられ、キリストの御身体なる聖なる公同の使徒的な教会が世界各地に形成されてゆくこと、そして主の御身体なる教会によって、聖霊によって現臨したもうキリストの救いの御業が全ての人々に現わされること、ただそこに全ての喜びと幸い、人生の目的そのものがあったのです。

 

 佐藤優というキリスト者の作家がいます。駐ロシア外交官として北方領土返還交渉に全てを献げ、その結果、国策捜査によって逮捕され500日以上も拘置所に収監された経験を持ち、現在は作家活動をしている人です。彼は同志社大学神学部大学院の出身ですが、私たちと同じ改革長老教会の信仰に立つ人です。この佐藤氏があるとき、青年たちの集まりで行った講演の中でこういうことを語っています。日本の教会にいまいちばん求められていることは、本気で真剣に「キリストのみをかしらとする教会」へと成長することだ。教会といえども人間の集団という一面があるのだから、時には心ならずも不協和音が生じることがあるだろう。しかしそのような時にこそ、全ての人間的な問題をキリストの御手に委ねて、ただ主の栄光のために一致団結する「同志的結合の強化」こそが最も求められているのではないか。私は必ずしも佐藤氏の神学論(特に組織神学)に同調しませんが、この点においては全くそのとおりだと感じました。

 

 使徒パウロがコリントで様々な妨害活動に悩まされ、伝道活動に挫折感を感じていたときのことです。ある夜の夢の中に主が現れてこう告げました。使徒行伝189節です「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。あなたには、わたしがついている」。そしてこうも言われました「この街には、わたしの民が大勢いる」。これこそ、今ここに集うている私たち全ての者に主が語っておられる御言葉です。この葉山にも、キリストの味方が大勢いるのです。そして救いの時を待っているのです。私たちは今そのことを心に留め、祈りを熱くしてキリストの弟子たる生活に、いよいよ励んで参りたいと思います。祈りましょう。