説    教           詩篇207節   ルカ福音書94648

               「最も小さき者に」 ルカ福音書講解〔80

               2021・08・08(説教21321920)

 

 「(46)弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。(47)イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、(48)「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。

 

 キリストの十二弟子たちの姿や行いを福音書を通して知るにつれ、私たちの心の中にひとつの素朴な疑問が沸き起こるのではないでしょうか?。それは「いつもキリストと共にいたはずの弟子たちが、どうして模範的な立派な人たちではなく、むしろ欠点だらけの普通の人間に過ぎないのか」という疑問です。しかし考えてみるなら、キリストの十二弟子たちも私たちと全く同じ人間なのですから、私たちがみなおしなべてそうであるように、彼らにも多くの欠点があるのはごく当然のことなのではないでしょうか。

 

 そこで、今朝の御言葉であるルカ伝946節以下に記された十二弟子たちの姿こそ、まさに彼らの人格的な欠点が露呈したものでした。この日、弟子たちは主イエスと共に道を歩きながら「彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった」というのです。この「偉い」と訳されたのは文字どおり「他の人たちよりも優れている」という意味のギリシヤ語です。つまり弟子たちは、自分たちの内でいったい誰がいちばん優れた人間であるかということを議論し合っていたのでした。

 

そして、この議論は決して穏やかな雰囲気では終わらなかったようです。むしろ弟子たちは議論しているうちに次第に熱を帯びて参りまして(こういう状況を白熱した議論、または議論沸騰と申します)つい声も大きくなり、やがて自分こそが「いちばん偉い」のだと主張するに至りました。ようするに十二人がみんなとめども無き自己肥大化を起こしていたわけです。「俺がいちばん偉いんだ」と全員が自己主張していたわけです。かくして議論はとめどもない自己主張の坩堝と化していたのでした。

 

 主イエスはと申しますと、主イエスはこの弟子たちの様子を静かに御覧になっておられました。そして白熱した議論が沸騰点に達したと思われたその時、静かに言葉を発せられたのです。今朝の47節以下を改めて読んでみましょう。「(47) イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、(48)「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。

 

 主イエスはちょうどそこに居合わせた一人の幼い子供を呼び寄せて、抱いて祝福され、ご自分の傍らに立たせて、弟子たちに言われたのです。「(48)だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」と。これには弟子たちはびっくりしたことでした。そして自分たちが道々議論していたことを顧みて恥ずかしく思ったことでした。彼らは今の今まで自分のことしか考えておらず、しかも「自分たちの中で誰がいちばん偉いか」と議論し合っていたからです。

 

 今朝、併せて拝読した旧約聖書・詩篇207節に、このように記されていました。「(7)ある者は戦車を誇り、ある者は馬を誇る。しかしわれらは、われらの神、主のみ名を誇る」。これは要するに弟子たちがしていた議論の内容そのものではないでしょうか。ある人々、ある国の政治家たちはこのように「自分がいちばん偉い」と主張すると言うのです。すなわち、我々には強い戦車があるのだぞ。我々には早い馬がたくさんいるのだぞ。だから我々の国こそがあらゆる国々の中でいちばん偉いんだ。いちばん強いんだ。まさにこの主張はそのまま、この時の十二弟子たちの姿そのものでした。

 

 これに対して主イエスは、一人の幼い子供を呼び寄せ、抱いて祝福されて、弟子たちに言われたのです。「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」と。幼子は自分自身を誇りません。大人たちのように、戦車があるぞ、馬があるぞと言って、自分を強く見せたりしません。言い換えるなら、幼子は、あらゆる人々の中で「最も小さな存在」です。さらに言うなら、幼子は、あらゆる人々の中で「最も偉くない存在」です。だからこそ主イエスは言われるのです。宣言されるのです。「(48)だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである」と。

 

 そこで、ここが実はいちばん大切な点なのですが、聖書において「最も小さき者」とはいったい何だろうか?ということを、私たちは正しく知っておく必要があるのです。幼子の特質は「無力なこと」にあります。無力であるからこそ、それは社会的な価値基準によれば「最も小さな存在」と見做されるわけですね。それでは、幼子の持つその「無力なこと」という特質を、私たちはただ単に社会的な次元に当て嵌めるのではなく、聖書の御言葉に基づいて「主なる神の御前で無力なこと」として理解すべきなのではないでしょうか。そのように理解してこそ初めて、今朝の御言葉における幼子とはいったい誰のことなのかという最も重要な事柄が見えてくるのではないでしょうか。

 

 キリスト教の福音、否、主イエス・キリストがお語りになり、聖書が証言している福音の本質は「救いのない者にこそ救いがある」ということに尽きるのです。社会的・人間論的な常識からは「救いのない者には救いは無い」という結論しか出てきません。つまり「最も小さな者には救いは無い」という結論しか出て来ないわけです。しかし社会的・人間論的な常識を離れて(捨てて)主なる神を中心にして見るとき、そこに驚くべき逆転が見えてくるのではないでしょうか。それが「救いのない者にこそ救いがある」という福音の本質です。つまり「最も小さな者にこそ救いがある」という福音です。

 

 だからこそ、主イエスは今朝の御言葉において弟子たちに、否、私たち一人びとりにはっきりと宣言しておられるのです。「あなたは主なる神の御前に最も小さき者であることを認めなさい。そして、主なる神の御前に自分を投げ出しなさい」と。個人的なことですが、私は40年前に幼稚園の園長をしていたことがあります。園児たちと接する日々の中で、いろいろな経験をさせて戴いたのですが、当時100人以上いた園児たちの中にマルタという名のポーランド人の女の子がいました。彼女は最初全く日本語ができなかった。英語もできませんでした。それで、いつも引っ込み思案だったのですが、あるとき、水が堰を切って流れるように日本語を使いだしたのです。

 

 たぶんそのきっかけとなった出来事は、ある朝の礼拝の中で、私がマルタちゃんをじっと見つめて、ポーランド語で「マルタ、あなたはいつも神に愛されているよ」と言ったことでした。「いつも神に愛されている」この事実を知った時、私たちは本当に祝福された「最も小さな存在」にならせて戴けるのではないでしょうか。それこそパスカルがパンセの中で語っているように、主なる神に向かって自分を投げ出す者にならせて戴けるのではないでしょうか。

 

 主イエス・キリストは、私たちという「最も小さな存在」のために、十字架への道を黙って歩んで下さったのです。そして御自身の全てを献げて、私たちに救いと真の自由と永遠の生命を与えて下さいました。私たちは十字架のキリストの内になにを見るのでしょうか?。答えは一つです、私たちに対する神の永遠の愛を見るのです。それは、主イエス・キリストが十字架において、私たちの罪のどん底にまで下って来て下さったことです。そこで、私たちの罪と死を徹底的に担い取って下さったことです。

 

そこに、私たちの救いと永遠の生命があります。そこに、私たちが歴史の中を歩みながら永遠の御国の民とされた喜びがあります。そこに、私たちがあるがままに天国の国籍を持つ者とされたことの幸いがあります。この喜びと幸いをもって、私たちは新しいこの一週間も、神の御前に「最も小さき者」として歩んで参りたいと思います。祈りましょう。