説    教       ダニエル書71518節  ルカ福音書943b45

               「十字架の予告」 ルカ福音書講解〔79

               2021・08・01(説教21311919)

 

 「(43b)みんなの者がイエスのしておられた数々の事を不思議に思っていると、弟子たちに言われた、(44)「あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。(45)しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた」。

 

 主イエス・キリストはいま弟子たちに、否、私たち一人びとりに、まことの信仰を求めておられます。弟子たちは、主イエスがなさった癒しの御業を見て、その「数々の事を不思議に思って」いたのでした。それは弟子たちの内に大きな驚きと感動を呼び起こすものでしたが、外部からの刺激による一時的な気持ちの高ぶりにすぎません。だから、弟子たちがどんなに主イエスのなさった数々の御業に驚いたとしましても、それだけでは何ひとつ弟子たちは変わりませんし、なによりも、彼らの罪は放置されたままになってしまうのです。

 

 今朝のルカ伝943節後半以下の御言葉において、最も大切なことは、主イエスがここに弟子たちに(つまり私たち全ての者に)(44) あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」と言われたことです。まず私たちは、主イエスが「この言葉を耳におさめて置きなさい」と言われたことを心に深く留めたいのです。これは元々のギリシヤ語では「心に受け止めて信じる」という意味の言葉です。たしかに主イエスがなさった御業の数々も大切なのですけれども、最も大切なこと、主イエスが私たち一人びとりにいま求めておられることは、まさに今ここで主イエスがお語りになる福音の御言葉を、私たち全ての者が「心に受け止めて信じる」ことなのです。

 

 それでは、主イエスがいま、私たち一人びとりにお語りになっておられる福音の御言葉とはいったい何でしょうか?。今朝の44節をもういちど心に留めたいと思います。「(44) あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。ここで主イエスが言われる「人の子」とはキリストのこと、つまり主イエスご自身のことです。それでは「人の子であるキリストが人々の手に渡されようとしている」とはどういうことでしょうか?。それこそまさしく十字架の出来事をさしているのではないでしょうか。

 

 主イエス・キリストは永遠なる神の御子であられたにもかかわらず、私たちの救いのため、全世界の罪の贖いのために人となられ、あのクリスマスの晩に、世界で最も暗く、貧しく、低いところに、すなわち、あのベツレヘムの馬小屋にお生まれになったかたです。主は何のために人となられたのでしょうか?。それは私たちの罪のどん底にまでお降りになって、私たちの底知れぬ罪を贖い、私たち全ての者を上からではなく下から救うためでした。言い換えるなら、世界で最も神から遠く離れていた者、最も救いから遠く離れていた者、最も相応しからぬ者をお救いになるために、主イエスは「人の子」となられ、私たちの底知れぬ罪のどん底にまでお降り下さったかたなのです。

 

 それが、主イエスが私たちのために背負って下さった十字架の意味なのです。本来なら、私たちこそあの十字架に架からねばならぬ者たちであった。否、たとえ私たちが十字架にかかろうとも、そこで私たちの罪が帳消しになるわけではありません。私たちは他人の罪はもちろん、自分自身の罪さえも神の御前に贖うことはできないからです。石川啄木が詠っておりますように「人といいふ人の心に一人ずつ囚人がいて呻く悲しさ」が、すなわち私たちの偽らざる姿なのではないでしょうか。それほどまでに重くしぶとく恐ろしい私たちの罪を、主イエス・キリストは身代わりになって、十字架におかかりになることによって贖い取って下さったのです。

 

 「(44) あなたがたはこの言葉を耳におさめて置きなさい。人の子は人々の手に渡されようとしている」。主がここで語っておられる「人の子は人々の手に渡されようとしている」こそ、私たちの救いのための十字架による贖いの御業にほかなりません。昔、約160年前のことですが、日本において最初のキリスト者となった横浜バンドの青年たちは当時の社会から迫害を受けました。洗礼を受けてキリスト者となった青年たち、植村正久、井深梶之介、山本秀煌、押川方義、篠崎桂之助など11名の青年たちは、何と言われて揶揄されたかといいますと「この者らは貼り付け柱を拝んで涙を流す」と言われたそうです。「貼り付け柱を拝んで涙を流す」。これを聴いて篠崎桂之助はこう言ったそうです。「まさにその通りだ、我々の誇りは、主がお架かりになった貼り付け柱にあるのだ!」。私たちはどうでしょうか?。今ここに集う私たち一人びとりもまた「まさにその通りだ、我々の誇りは主がお架かりになった貼り付け柱にあるのだ!」と、喜びをもって毅然として語る信仰にいま生きているでしょうか。

 

 主の弟子たちは、今朝の御言葉の最後の45節を見ますと「(45)しかし、彼らはなんのことかわからなかった。それが彼らに隠されていて、悟ることができなかったのである。また彼らはそのことについて尋ねるのを恐れていた」とありますように、主イエスが語られた十字架の予告が、いったいなんのことかわかりませんでした。「それが彼らに隠されていて、悟ることができなかった」とは、まだ彼らには聖霊が降っておらず、信仰が不十分であったことをあらわしています。やがて主イエスの十字架と復活ののちに、ペンテコステの出来事が起こった時、弟子たちはそこで初めて聖霊によって現臨したもう復活の主イエス・キリストとの出会いによって、本当の信仰を持つ主の弟子たちへと変えられていきました。

 

つまり、今朝のこの御言葉の時点では、まだ弟子たちは主イエスの十字架について「そのことについて尋ねるのを恐れていた」のですが、ペンテコステによって正しい信仰が弟子たちに与えられたことによって、まさに十字架の主イエス・キリストこそが信仰の中心になったのです。このことについて使徒パウロは第一コリント書21節以下において、このように語っています。「(1)兄弟たちよ。わたしもまた、あなたがたの所に行ったとき、神のあかしを宣べ伝えるのに、すぐれた言葉や知恵を用いなかった。(2)なぜなら、わたしはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外のことは、あなたがたの間では何も知るまいと、決心したからである。(3)わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。(4)そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。(5)それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった」。

 

 ここに、すなわち十字架と復活の主イエス・キリストの御身体なる、聖なる公同の使徒的なる教会に連なっている私たち全ての者は、まさにここでパウロが語っている「人の知恵によらないで、神の力による信仰」に立つ僕たちとされているのではないでしょうか。それは、私たち全ての者に救いと永遠の生命を与えるために、十字架において私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった主イエス・キリストを信じ告白する信仰に生きる群れであり、その信仰の群れである主の教会に連なって歩む私たちです。私たち一人びとりが、今ここに、十字架の主に贖われた僕たちとして、心を高く上げて、新しい一週間の日々を、主と共に、主の愛と祝福の内を、歩む僕たちとならせて戴いているのです。祈りましょう。