f説    教        詩篇119114節   ルカ福音書93743a

               「癒しの御業」 ルカ福音書講解〔78

               2021・07・25(説教21301918)

 

 「(37)翌日、一同が山を降りて来ると、大ぜいの群衆がイエスを出迎えた。(38)すると突然、ある人が群衆の中から大声をあげて言った、「先生、お願いです。わたしのむすこを見てやってください。この子はわたしのひとりむすこですが、(39)霊が取りつきますと、彼は急に叫び出すのです。それから、霊は彼をひきつけさせて、あわを吹かせ、彼を弱り果てさせて、なかなか出て行かないのです。(40)それで、お弟子たちに、この霊を追い出してくださるように願いましたが、できませんでした」。

 

主イエスが3人の弟子たちと共に「高い山」の上からガリラヤ湖湖畔のカペナウムに戻って来ますと、そこでは町中がある出来事を巡って大騒ぎをしていたのでした。それは、今朝の御言葉であるルカ伝937節以下に示された出来事です。病気のひとり息子を持つ父親が、主イエスの留守中に、カペナウムに残っていた9人の弟子たちにその息子の癒しを願ったのです。弟子たちにしてみれば、つい一週間前の伝道旅行での経験で自信があったのでしょう、気軽にその子の癒しを引き受けたのです。ところが、癒すことができなかった。それどころか、その子の病気はますます酷くなってしまった。どうにも手が付けられない状態になってしまったのでした。

 

すると当然、黙っていないのが、パリサイ人をはじめとする律法学者たちと口さがない町の人々でした。パリサイ人らにしてみれば、そうれ見ろ、お前たちは主イエスの弟子だと豪語しておりながら、この子の病気を癒すことができなかったではないか。弟子であるお前らがそんな不甲斐ない様子では、ナザレのイエスとやらもキリストなどではあるまいと、そのように揶揄したわけです。それに呼応するように、カペナウムの町の人々も弟子たちを非難しました。そのような大混乱のさ中に主イエスは山から降りてカペナウムに戻ってこられたわけです。

 

さて、この子の病気は単なる肉体の病気以上に、さらに深刻なものでした。なぜなら、それは「霊」すなわち悪霊がその子に取り憑いたことによって生じたものだったからです。だからこそ、この子の父親は主イエスが山から降りて来られるのを待ちかねたように、主イエスに向かって「群衆の中から大声をあげて」息子の病の癒しを願ったのでした。「(38)先生、お願いです。わたしの息子を見てやってください。この子はわたしのひとり息子ですが、(39)霊が取りつきますと、彼は急に叫び出すのです。それから、霊は彼をひきつけさせて、あわを吹かせ、彼を弱り果てさせて、なかなか出て行かないのです」。そこで、今日の私たちが、これを癲癇性の病気だと考えることは簡単なことです。むしろ私たちが今朝の御言葉によって直面させられている問いは「あなたは主イエスに、あなたの本当の癒しを求めているか?」という問いなのです。

 

 昨今は「癒し」がひとつのブームになっています。いろいろな宗教も、人間の癒しを最終的な目的にしていると考えられている風潮があります。英語で「癒し」と訳される言葉には3つあります。まず肉体的な病気の治療を意味する“Cure”それから心に寄り添う意味も含める“Care”そして精神的な癒しも含める“Heal”です。特に最後の“Heal”はHealingという言葉で癒しブームに火をつけるような役割を果たしました。単純に申しますなら、Cureは肉体の癒し、Careは心の癒し、そしてHealは精神の癒しであると言うことができるでしょう。大切なことは、これら3つの言葉は全て、人間の肉体的な癒しという枠を一歩も出ていないことです。つまり「あなたの救いは肉体の癒しにあるのだ」と主張することです。これを神学的に言いかえるなら「人間こそが神である=人間の肉体的な癒しだけが救いである」ということになるのです。

 

 本当にそうなのでしょうか?。本当にそのような主張がブームになることによって、私たちの人間社会はより幸福で自由なものになったのでしょうか?。むしろ逆ではないでしょうか。肉体的な癒しを求めれば求めるほど、逆に私たち人間は自分という枠に囚われた生きかたをするようになっているのではないでしょうか。例えば、私がいつも疑問に思っていることなのですが、どうしてコロナウイルスで死ぬことだけが問題視されているのでしょうか?。人間の死は、それがたとえコロナウイルスによるものであっても、他のどんな死因によるものであっても、神の御前に同じ重みを持つはずです。それなのに、どうしてコロナウイルスで死ぬことだけが恐れられているのでしょうか?。しかもコロナが原因で死ぬ人の数は、他の死因で死ぬ人の10,000分の1以下、特に日本では100,000分の1以下にすぎないのです。コロナが蔓延してからもう2年も経つというのに、どうして今なお世界は、人類は、冷静な考えかたができないのでしょうか?。

 

 今朝の41節以下を改めて心に留めたいと思います。「(41)イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。あなたの子をここに連れてきなさい」。(42)ところが、その子がイエスのところに来る時にも、悪霊が彼を引き倒して、引きつけさせた。イエスはこの汚れた霊をしかりつけ、その子供をいやして、父親にお渡しになった。(43)人々はみな、神の偉大な力に非常に驚いた」。

 

 主イエスはこの子を癒すことができなかった弟子たちに対してはっきりとおっしゃいました。「(41)ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか」と。ここで主イエスは弟子たちに示しておられることは「不信仰」ということです。肉体の病気を癒すことができたとか、できなかったとか言うことではなく、弟子たちの、否、私たちの「不信仰」をこそ主イエスは問題になさるのです。それはどういうことかと申しますと、主イエスが私たち全ての者に現わして下さる本当の「癒し」は「救いそのもの」なのだということです。逆に言うなら、主イエスは救いそのものではないような癒しを私たちにお与えにならない。それは、主イエスの御前にはいかなる人の死といえども同じ意味を持ち同じ重さを持つからです。

 

 聖書を、特に福音書を丁寧に読んで参りますと、主イエスが現わされた癒しの御業は全て、救いの御業であったことがわかります。単なる肉体の癒しは私たちの罪を贖うものではありません。しかし主イエスが現わして下さった救いの御業は私たちの罪を贖い、主なる神に立ち帰らせて下さるものでした。単なる肉体の癒しは神と私たちとの関係にかかわるものではありません。しかし主イエスが現わして下さった救いの御業は、私たちをあるがままに御国の民となし永遠の生命を与えるものです。単なる肉体の癒しはやがて誰にも訪れる死によって終わってしまいます。しかし主イエスが現わして下さった救いの御業は私たちを摘みによる死と滅びから救い、まことの生命を与えて下さるものです。単なる肉体の癒しは私たちの人生を変えるものではありません。しかし主イエスが現わして下さった救いの御業は、私たちをして主の僕たる人生を歩ませて下さるものです。

 

 今、私たち一人びとりに、まさに十字架と復活の主イエス・キリストにより、救いの御業としての本当の癒しが与えられています。教会はその唯一の真の癒しの御業が現わされる場所であり、キリストの御身体なる神の家であり、天国の出張所(ブランチ)です。私たちはいまここに連なる僕たちとされて、聖霊によって現臨しておられる主イエスによる救いの御業に豊かに与かる者たちとされ、心を高く上げて、主と共に、主の祝福と愛の内を歩んでゆく者たちとされているのです。祈りましょう。