説    教        イザヤ書4214節  ルカ福音書93336

               「汝らこれに聴け」 ルカ福音書講解〔77

               2021・07・18(説教21291917)

 

 「(33)このふたりがイエスを離れ去ろうとしたとき、ペテロは自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。私たちはなにか非常に素晴らしい場面に遭遇したとき、あるいは感動のあまり極度な心の高ぶりを覚えたとき、まさに今朝の33節にあるように「自分が何を言っているのかわからないで」発言することがあります。

 

 今朝の33節に記されている、ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、この3人の弟子たちがまさにそのような極度の興奮状態にありました。事実ペテロは「自分が何を言っているのかわからないで、イエスに言った」のでした。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。ここでペテロが「小屋」と言っているのは、原文のギリシヤ語を直訳すると「天幕」つまりテントのことです。この高い山の頂上に、仮拵えの天幕を3つ作りましょうとペテロは主イエスに申し上げたのです。

 

 それは、何のための天幕でしょうか?。ペテロは思ったのです「この素晴らしい経験をいつまでもここに留めておきたいものだ!」と。これは逆に言うなら、「もう自分たちはこの山から下りたくない」ということです。ゲーテのファウストに「時間よ、止まれ」という有名な一節があります。ファウスト博士は悪魔メフィストと契約を結ぶのです。悪魔メフィストはファウスト博士にこの世界のありとあらゆる栄耀栄華を見せると約束しました。しかしファウスト博士がただの一度でも「世界よ、人生よ、お前は素晴らしい=時間よ、止まれ」と言うなら、その瞬間にファウスト博士の魂はメフィストの所有になるのです。

 

 ペテロ、ヨハネ、ヤコブも、まさにこのファウスト博士と同じことを語ろうとしているのではないでしょうか。迂闊にも(自分が何を語っているかさえ知らぬままに)悪魔と契約を結ぼうとしているのではないでしょうか。それは、自分たちのために、自分たちだけのために、神の栄光の輝きを3つの天幕に留めておこうとする誘惑です。これは言い換えるなら、自分を(つまり人間を)神にすることです。自分が神と等しい存在であろうとすること、つまり自己神格化への誘惑です。「時間よ、止まれ」とは言いかえるなら「神よ、あなたは私のためにここに留まりなさい」と言うことです。自分のために神を留めて置こうとすることです。神に支配される自分であることを止めて、神を支配する自分であろうとすることです。これこそ、私たち人間の罪の姿そのものであり、そこに悪魔の目的があるのです。

 

 それだけではありません。もう一つの罪があります。ペテロはここで天幕を3つ建てる理由について「(33)一つはあなた(主イエス)のために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」であると言いました。これはどういうことかと申しますと、ペテロはここで、永遠の神の独子であられる主イエス・キリストを、人間である預言者モーセとエリヤに等しい存在にしてしまっているのです。モーセは律法を代表する存在であり、エリヤは預言者たちを代表する存在です。つまりペテロはこの山の上に天幕を3つ建てることによって、主イエス・キリストを律法と預言者に等しい存在に留めようとしているわけです。

 

 どうか続けて34節以下を読みましょう。「(34) 彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。(35)すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。(36)そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことについては、そのころだれにも話さなかった」。

 

 まず、身の程もわきまえずに「私はここに天幕を3つ建てたい」と言い張るペテロ、ヨハネ、ヤコブを、「雲がわき起って彼らをおおいはじめた」のでした。つまり雲に覆われることによって、主イエスのお姿が彼らには見えなくなったのです。そこで初めて3人の弟子たちは恐れを感じました。自分たちが神の御心にそぐわないことを語ったのだと理解し始めたわけです。彼らはみな恐れのあまり地面に顔を伏せたことでしょうし、「神よ我らを赦したまえ、我らは罪人なり」と真剣な祈りを献げたことでしょう。そこに、雲の中から御声が響きました。35節です。「(35) すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。

 

 先ほど、モーセは律法を代表する者であり、エリヤは預言者を代表する者だと申しました。それならば、主なる神は雲の中から3人の弟子たちに「律法からではなく、預言者からでもなく、神の御子イエス・キリストを通して御言葉を聴きなさい」と語っておられる、命じておられるのです。なぜなら、主イエス・キリストのみが神が「これはわたしの子、わたしの選んだ者である」と言いたもうかただからです。モーセとエリヤは律法と預言者を代表しますが人間にすぎません。しかし主イエス・キリストはニカイア信条が告白しているように「永遠の神からの永遠の神」であり「父なる神と同質なるかた」なのです。ここでご一緒にヨハネ福音書117,18節、そしてローマ書321,22節を読みましょう。「(17) 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。 1:18神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」。「(21)しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。(22)それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない」。

 

 さて、今朝の御言葉は最後の36節において最も大切な福音の告知を私たちに告げています。「(36)そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。弟子たちは沈黙を守って、自分たちが見たことについては、そのころだれにも話さなかった」。ここに「そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた」とあります。同じ場面を記しているマルコ伝97節にはこのように記されています。「(7)彼らは急いで見まわしたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた」。

 

 私たちにとって最も大切なこと、これこそ福音の本質に関わることなのです。「ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた」このひとつの事実こそ、私たち全ての者にはっきりと示され、与えられている限りない恵みであり、全てにまさる祝福なのです。どうか今、はっきりと覚えましょう。私たち全ての者にとって「「ただイエスだけが、自分たちと一緒におられた」「イエスがひとりだけになっておられた」この恵みの事実こそ最も大切な、最も幸いなことなのです。なぜでしょうか?。それは、神の永遠の御子イエス・キリストは、神と本質を同じくしたもうかたであるにもかかわらず、私たちの救いのために全てを捨てて人となられ、十字架への道を歩まれ、十字架において御自身の全てを献げて、私たちの罪の贖いを成し遂げて下さった唯一の救い主だからです。

 

 このかたのみが、十字架の主のみが、私たちの人生の全ての日々のみならず、死の彼方にさえも、私たちと共にいて下さる唯一の救い主なのです。そして私たちは今日の御言葉において明確に告げ知らされています。「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」と。生ける福音の真理の御言葉、私たちを救いへと導く生命の御言葉、私たちの全存在を堅く支える神の御言葉は、十字架と復活の主イエス・キリストによって、昔も、今も、これからも、変わることなく私たち一人びとりに語られているのです。私たちは今その御言葉に養われ、導かれ、支えられて、新しい一週間の旅路へと進んで参りたいと思います。祈りましょう。