説    教         イザヤ書615節  ルカ福音書92832

               「山上の変貌」 ルカ福音書講解〔76

               2021・07・11(説教21281916)

 

(28)これらのことを話された後、八日ほどたってから、イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた」。先ほどご一緒にお読みしましたルカ福音書928節にはこのように記されていました。ここに「これらのことを話された後」とありますのは、主イエスが群衆と弟子たちにお語りになった神の国(神の永遠の恵みの御支配)の福音の説教のことをさしています。それは約1週間にわたって続いた説教でした。主イエスの十二弟子たちも含めて、おそらく何千人、何万人もの人々がその説教を聴いたのです。

 

 ですから、主イエスにはお休みになる暇さえありませんでした。肉体的にも、とてもお疲れになっていらしたであろうことは申すまでもありません。それで、この一週間にも及んだ一連の説教が終わった段階で、主イエスはペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子だけをお連れになって「祈るために山に登られた」のでした。この山というのは、他の福音書では、たとえばマタイ伝171節やマルコ伝92節などを見ますと「高い山」となっています。この「高い」と訳された言葉は「非常に高い」という意味を持つギリシヤ語ですから、その山というのはガリラヤ湖の北側、今日のレバノンに聳える標高2814メートルのヘルモン山 (חרמון הר)であった可能性もあります。

 

 いずれにいたしましても、主イエスがその「高い山」に3人の弟子たちをお連れになって上られた理由は「祈るため」でした。主なる父なる神との親しき語らい、つまり祈りの時こそ、主イエスにとって他の何物にも代えがたい休息であり喜びの時であったのです。カール・ポパーというドイツの哲学者は「余暇と祝祭」という本の中で「現代人が失った最大のもの、それは礼拝を伴う休息である」と語っています。休息すなわち余暇のことをドイツ語で“Freizeit”と言うのですが、その“Frei”とは単なる自由のことではなく、本来は祝祭(Feiern)に由来しているとポパーは言うのです。つまり、現代人にとって余暇は祝祭を失った単なる「肉体の休み=レジャー」にすぎなくなっているのです。

 

 主イエスは3人の弟子たちに、本当の意味での余暇(Freizeit)を与えるために、わざわざ彼らを伴って「高い山」に上られたのではないでしょうか。そして事実、彼ら3人がその「高い山」の上で見聞したことは、実に筆舌に尽くしがたい素晴らしい経験であったのです。今朝の御言葉の続く29節以下を読んでみましょう。「(29)祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。(30)すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが、(31)栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである」。

 

 またドイツ語の話になりますが、この「最後のこと」とはルター訳の聖書では“Die letzten Dinge”と訳されています。これと全く同じ言葉を終末論に関する著書のタイトルにしたアルトハウスという神学者がおりますが、これは要するに「人生の最重要事項」という意味なのです。私たちはどうでしょうか?。私たちにとって人生の最重要事項とはいったい何でしょうか?。つまり、主イエスが山の上でモーセとエリヤと共に語り合っておられた会話の内容は、まさに私たち一人びとりにとっての「人生の最重要事項」でもあったわけです。

 

 福音書記者ルカは31節において、その「人生の最重要事項」とは「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のこと」であると明記しています。それは私たち全ての者の罪の贖いと救いのために、神の永遠の御子イエス・キリストが十字架におかかりになることです。端的に申しますなら「十字架の出来事」です。それこそが私たち人間にとって「人生の最重要事項」なのです。つまり「私たちの罪の贖いと救い」です。この最重要事項を除外するなら、私たちの人生そのものが成立たなくなるのではないでしょうか。

 

 さて、今朝の御言葉の最後の32節を見ますと「(32) ペテロとその仲間の者たちとは熟睡していたが、目をさますと、イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た」と記されています。これほど大切な「人生の最重要事項」に直面しているにもかかわらず、弟子たちは、否、私たちは「熟睡している」存在なのです。自分がどこに立っているのか、どこに向かって生きているのか、いや、そもそも自分はいったい何者なのか、人生の意味と目的はいったい何なのか、この最も大切な事柄が私たちにはわかっておらず、むしろ「熟睡している」存在なのです。

 

 最初に目を覚ましたのは誰だったのでしょうか。ペテロだったかもしれません。するとペテロは他の2人の弟子たちの肩を慌てて揺り起こしたのでした。「おい、あれを見てみろ、イエス様のお姿が、神の栄光に包まれているぞ!」弟子たちは本当に驚いて飛び起きたのではないでしょうか。それは夢や幻ではなく、まさしく現実でした。すなわち今朝の32節に「(32) イエスの栄光の姿と、共に立っているふたりの人とを見た」とあることです。同じ場面を書き記したマルコ伝923節にはこのように記されています。「(2) ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、(3)その衣は真白く輝き、どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。(4) すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた」。

 

 どういうことかと申しますと、これこそまさに「人生の最重要事項」と深く関連するのですが、3人の弟子たちは主イエスが父なる神と共に永遠の昔から持っておられた「神の栄光」の輝きを垣間見たのです。そこで、この場面は英語の聖書の表題などでは“The Transfiguration of Jesus”と表記されることが多いのです。しかし実際には主イエスのお姿がトランスフィギュアしたのではなくて、主イエスのお姿はそのままに、神の国の栄光に輝きに包まれたと理解するべきでしょう。なぜなら、主イエス・キリストの本質(神と同質なる主イエスのお姿)は永遠に変わりたもうことはないからです。

 

 それならば、主イエスは、父なる神のみもとで持っておられた栄光の輝きをかなぐり捨てて、私たちの罪の現実のただ中に人となられて来臨して下さったかたなのです。神の外に出てしまった私たちを救うために、永遠なる神の御子であられる主イエスみずから神の外に出て下さったのです。神との交わりを失っている私たちを神に立ち帰らせるために。主イエスみずから神の御国における栄光を捨ててこの歴史的現実世界のただ中に来て下さったのです。そこで私たち全ての者の測り知れない罪を一身に担って下さり、十字架への道を歩んで下さったのです。

 

 最後に一つのことを申し上げておきたいと思います。この山の上で、モーセとエリヤは何を主イエスと語り合っていたのでしょうか?。もちろん、その会話の内容については、私たちは31節にあるように「(31) イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していた」ということ以上のことを窺い知ることはできません。そして20世紀最大の哲学者と言われるヴィトゲンシュタインが語ったように「私たちは知りえざる事柄については沈黙せねばならない」のかもしれません。しかし、ここでこそ敢えて私たちは語るべきでありましょう。たしかに「私たちは知りえざる事柄については沈黙せねばならない」のでありますけれども、それが哲学の限界なのですけれども、まさにその「知りえざる事柄」を宣べ伝えることこそ神学の使命であり、教会のなすべき福音宣教のわざなのです。

 

 それは何でしょうか?。それこそ「主はあなたのため、あなたの救いのために、十字架におかかりになった救い主である」という驚くべき福音の告知です。それこそが「人生の最重要事項」であり、私たちは今、聖霊によって現臨したもう主イエス・キリストによって、親しくその福音を聴く者たちとされているのです。祈りましょう。