説    教      エレミヤ書331416節  ルカ福音書92327

               「日々十字架を負いて」 ルカ福音書講解(74)

               2021・06・20(説教21251913)

 

 「(23)それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(24)自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」。今朝、私たちに与えられたこの福音の御言葉を聞いて、まず私たちは最初にどのように感じるでしょうか?。何よりも、ここで主イエスは私たち一人びとりに対して「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と言われました。このような御言葉を聞いて、たぶん私たちがすぐに思いますことは「これは自分に対するかなり厳しい道徳的な要求である」というものではないでしょうか。

 

 事実ここには「自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」と告げられているのです。私たちは、おそらく真面目な人ほど、これを恐れと緊張感、そしてある種の戸惑いなくして、聴くことはできないのではないでしょうか。ああ、主イエスは怠惰なキリスト者である私に「日々自分の十字架を負う」生活を求めておられるのだ。たしかに私の日々の生活は安易な方向に流れて行きそうだった。私は自分の十字架を負うことをしていなかった。私は怠惰で不忠実な、主の僕に相応しくない駄目な人間だ。そのような思い、つまり自己反省の思いを喚起される言葉として、私たちは今朝のこのルカ伝923節以下を読んでしまうのではないでしょうか。

 

 そこで、はっきりと申します。もしもそうだとするなら、私たちは今朝のこの23節以下の御言葉を完全に誤解していると言わざるをえません。少なくとも私たちは、主イエスがお語りになった福音の内容を全く理解していないと言わざるをえないのです。そもそも「私たちの十字架」「あなたの十字架」というものがありうるのでしょうか?。たとえ私たちの人生が数多くの苦しみや悩みに満たされたものだったとしても、そのことによって私たちは、それらの苦しみや悩みを「私の十字架」だと呼ぶことが許されるのでしょうか?。答えは否です。私たちのいかなる悲惨な経験といえども、それを主イエス・キリストの十字架と同列に並べることなどできないはずです。

 

 いまから約150年前、ドイツのアドルフ・フォン・ハルナックという神学者が「キリスト教の本質」という本を著しました。この本の中でハルナックはこういうことを語っています。「真のキリスト教にとって、十字架は人類に対するイエスの愛の一つの例証にすぎない。キリストの十字架は私たちの救いの根拠ではない。更に言うなら、十字架は“なくてもよいもの”にすぎない」。ここでハルナックが語っていることは、聖書が告げているキリストの十字架による救いは、私たち自身が既に持っているもの、既に手中にしているものにすぎないということです。つまり、私たち人間はそれぞれの自然性において救われているのであって、キリストの十字架は“なくてもよいもの”なのだということです。それが「キリスト教の本質」であるとハルナックは語ったのです。

 

 本当にそうなのでしょうか?。本当に「キリストの十字架は“なくてもよいもの”にすぎない」のでしょうか?。そして私たちの救いはキリストの十字架に根拠を持つのではなく、私たち自身の自然性の中に根拠を持つものなのでしょうか?。それは言い換えるなら、私たちの救い主はキリストではなく、私たち自身なのだという教えです。もはやそれを「福音」と呼ぶことはできません。聖書が語っている福音は、私たちの救いはただ十字架の主イエス・キリストにのみあるのだと告げているからです。いかなるい意味においても、人間の自然性の中には救いの根拠はありえないのです。むしろそれは罪の支配のもとにあるからです。

 

 少し神学的な、複雑なことを語りました。どうしてかと言いますと、このハルナックのような間違った聖書の理解が、今日においてこそ広く教会の内外に流布している現実があるからです。その一つの端的な表れが今朝のルカ伝923節以下の御言葉の現代的な解釈に見られるのです。「(23)だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」。この主イエスの御言葉を、私たちもまたいつのまにか、自分の自然性(日常生活の諸経験)の中に取り込んでしまうのです。そして、主イエスの十字架と並ぶ自分自身の十字架が聳え立つのだと幻想を抱くのではないでしょうか。それはあと一歩でこういう結論に私たちを導きます。「キリストの十字架は私にとっては必要のないものだ」。

 

 どうかはっきりと覚えましょう。主イエス・キリストが私たちのために背負いたもうた十字架は唯一無比のものであり、私たち全ての者にとって唯一の救いの根拠なのです。今朝、併せてお読みした旧約聖書・エレミヤ書3316節にこのようにございました。「(16) その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」。これは私たち人間の罪の結果としての絶望的な滅びの中に、ただ十字架の主イエス・キリストによってのみ、真の、唯一の、永遠の救いがもたらされることを預言している御言葉です。ここで預言者エレミヤは「主は我々の正義」と語っています。その逆ではないのです。「我々は主の正義」なのではない。「主のみが我々の正義」なのです。これが大切な唯一のことです。そしてこの「正義」とはヘブライ語で言うならミシュパート、つまり永遠の救いのことです。

 

 今朝のルカ伝923節の御言葉をもう一度心に留めたいと思います。「「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。(24)自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう」。主イエスが言われる「自分の十字架」とは「あなたのために私が負うた十字架」という意味です。「あなたも私のような十字架を背負わなければならない」という意味ではありません。そうではなくて「あなたが背負うべき十字架は私が身代わりになって引き受けた」と主ははっきりと語っていて下さるのです。この主イエスの恵みによってこそ、私たちは日々自分の十字架を背負う生活へと押し出されてゆきます。それは何かと申しますと、日々新たに十字架の主に連なる生活です。

 

 日々新たに十字架の主に連なる生活。それこそが、私たちキリスト者の新しい、喜びに満ちた、自由な生活に他なりません。それは、私たちの唯一の救いの根拠である主イエス・キリストの十字架を仰ぎ、ただ主にのみ栄光と讃美を献げる新しい生活です。文語訳の聖書で第一コリント書117節を読みますと「(17)是キリストの十字架の虚しくならざらん爲なり」となります。これは使徒パウロが、自分の救いの根拠は自分自身にあるのだと主張する律法主義者たちに対して、私たちの救いはただ十字架の主イエス・キリストにのみあるのだと語っている御言葉の中にあります。私たちもまた「是キリストの十字架の虚しくならざらん爲なり」との思いをもって、祈りをもって、ただひたすらに十字架の主イエス・キリストのみを仰ぎ、キリストの御身体なる教会によってキリストに連なる生活を続けてゆく者たちでありたいと思います。

 

 最後に、ヨハネ伝155節をお読みいたしましょう。「(5)わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしに繋がっており、また私がその人と繋がっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。私から離れては、あなたがたは何一つできないからである」。祈りましょう。