説    教        レビ記261113節   ルカ福音書91822

               「神のキリスト」 ルカ福音書講解(73)

               2021・06・13(説教21241912)

 

 「(18)イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちが近くにいたので、彼らに尋ねて言われた、「群衆はわたしをだれと言っているか」。(19)彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。しかしほかの人たちは、エリヤだと言い、また昔の預言者のひとりが復活したのだと、言っている者もあります」。(20)彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。

 

 これが今朝、私たちに与えられている福音の御言葉です。同じ場面を記しているマタイ伝1613節以下によれば、場所はガリラヤ湖の北にあるピリポ・カイザリヤでのことでした。そこは美しい泉のある場所で、山々に囲まれた静かなところです。そこで主イエスは群衆たちから離れて祈りの時を過ごされたのです。もちろん弟子たちは主イエスと共にいました。そこで主イエスは弟子たちに一つの大切な質問をなさいました。それは「群衆はわたしをだれと言っているか」というものでした。

 

 弟子たちはおそらく、ペテロを始めとして口々にお答えしたに違いありません。19節にはこのように記されています。「(19)彼らは答えて言った、「バプテスマのヨハネだと、言っています。しかしほかの人たちは、エリヤだと言い、また昔の預言者のひとりが復活したのだと、言っている者もあります」。弟子たちは主イエスについて、様々な噂や憶測が世間に流布していることを知っていました。ある人たちは主イエスについて「ヘロデが処刑したバプテスマのヨハネが生き返ったのだ」と言いました。またある人たちは「預言者エリヤが再来したのだ」と言い、またある人たちは「昔の預言者のひとりが復活したのだ」と言いました。

 

 私たちはこのことによって、当時のユダヤの民衆の間に流布していた主イエスに関する噂話の内容と同時に、当時の人々が主イエスに対して何を期待していたのかを知ることができます。つまり、当時のユダヤの人々のほとんどは主イエスのことをキリスト(救い主)であるとは考えていなかった。むしろバプテスマのヨハネ、エリヤ、その他の預言者の一人が復活したのだと考えていたのです。

 

これは裏返すなら、当時のユダヤの人々は主イエスに対して、現代の日本の言葉で言うなら「世直し」を期待していたということです。罪の赦しと救いではなく、世直し、つまり、政治的な理想の実現を望んでいたということです。何よりも、当時の人々が強く願っていたことは、ユダヤがローマ帝国による隷属状態から解放されて、ダビデ時代の栄光を取り戻すようになることでした。ようするに当時のユダヤの人々は、愛国主義(シオニズム)の理想像を主イエスに投げかけ、その実現を期待していたと言えるでしょう。

 

 もちろん、主イエスは弟子たちのこのような報告に満足なさるはずはありません。主イエスはさらに、弟子たち自身にお訊ねになるのです。今朝の20節をご覧ください。「。(20)彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。この、最も大切なご質問に対して、弟子たちを代表してペテロがお答えしました。「(あなたは)神のキリストです」と。これは、実は、たいへん興味ぶかい言葉でして、新約聖書の中ではここだけに出てくる独特なキリスト告白です。たとえば私たちは、これと同じ場面を記した他の福音書の御言葉を思い起こすことができるのではないでしょうか。

 

 まず、先ほども引用しましたマタイ伝1616節によれば、ペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と告白しています。また、マルコ伝829節では、ペテロによる告白は「あなたこそキリストです」という言葉になっています。これら2つのキリスト告白に較べるなら、今朝のルカ伝920節の「(あなたは)神のキリストです」という信仰告白は、私たちにとって決してわかりやすいとは言えないと思います。むしろ、これは少しわかりづらい言葉なのではないでしょうか。このような時に私がすぐにいたしますことは、ルター訳のドイツ語の聖書を読むことです。ルターは20節をこのように訳しています。“Du bist der Christus Gottes

 

 さすがはルターでありまして、この“Gottes”の“s”は明確な所有格を示すものですが、それだけではありません。なによりもDu bist der Christus Gottes”とは、キリストと父なる神が同格であられることを示す文脈です。だから意訳するとこのようになります「あなたこそは神と本質を同じくしたもうキリストです」。つまりニカイア信条の「キリストは父なる神と同質」というキリスト告白に直結している信仰告白こそが今朝の20節なのです。

 

さて、それと同時に、私たちはもう一つの大切な御言葉に注目せねばなりません。それは今朝の御言葉の冒頭の18節に(18)イエスがひとりで祈っておられたとき」とあることです。ルカ伝を丁寧に読んで参りますと、主イエスがどんなに祈りを大切にしておられたかがわかります。たとえば、主イエスは1)洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼をお受けになる時に祈りたまい(3:212)人を癒したのちに人里はなれた所に退いて祈りたまい(5:163)十二使徒をお選びになるに際して祈りたまい(6:124)ペテロ、ヨハネ、ヤコブの3人の弟子を連れて高い山に登られた時に祈りたまい(9:285)ペテロのために祈りたまい(22:326)ゲツセマネの園で祈りたまい(22:41427)十字架の上でさえも祈りたまいました(23:34)。それに加えて食前の祈りが常にありました(9:1622:1724:30など)。

 

そこで、このように読んで参りますと、イエスの祈りがいつも前にあって、ペテロや他の弟子たちの信仰告白はその後にあったことが、わかるのではないでしょうか。ただ主イエスの祈りによって十二弟子が選ばれ、ただイエスの祈りによって五つのパンと二匹の魚によって群衆と弟子たちは養われ、ただイエスの祈りに支えられて弟子たちは信仰告白へと導かれたのです。そののち弟子たちは主イエスを裏切り引渡し見捨て十字架へと追いやりますが、主イエスの祈りによって罪を赦されて使徒とされたのです。

 

特にペテロの生涯について見るとき、私たちはこの、主イエスの祈りに基づく赦しと救いを知らしめられるのです。ピリポ・カイザリヤで信仰告白をしたペテロは、そののちエルサレムで十字架を前にして3度主イエスを「知らない」と言い張りました。主イエスとの関係を全面否定したのです(22:5462)。そしてルカ伝だけが、「ペテロの否定」のその瞬間、主イエスが振向いてペテロを見つめたことを記しています(22:61)。この主イエスのまなざしもまた「ペテロの信仰がなくならないための、あらかじめの祈り」によるものでした(22:32)。ペテロだけではありません。他の全ての弟子たちも、全ての人、ここに連なっている私たち一人びとりが、あらかじめ主イエスの祈りによって、御国の道を歩む者たちとして立てられ、選ばれ、祝福され、押し出されているのです。

 

 私たちもいま、まさに聖霊によって現臨したもう主イエスの恵みと執成しの祈りのもとに立てられ、集められて、新しい一週間の信仰の旅路へと遣わされてゆきます。そして私たち一人びとりがいまここに、主の弟子たちとされて、主の使徒たちとされて、それぞれの人生の旅路へと押し出されてゆくのです。その私たちが、いま十字架と復活の主イエス・キリストに対して献げる信仰告白の言葉こそ「あなたこそ神のキリストです」なのです。祈りましょう。