説    教          詩篇2316節   ルカ福音書91217

               「主はわが牧者」 ルカ福音書講解(72)

               2021・06・06(説教21231911)

 

(12)それから日が傾きかけたので、十二弟子がイエスのもとにきて言った、「群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。これが今朝、私たちに与えられたルカ伝912節以下の始まりです。場所はガリラヤ湖の岸辺、時は夕暮れ時でした。そして大勢の群衆が主イエスのあとを追ってきて、主イエスと弟子たちはその群衆に取り囲まれていたのです。弟子たちは急に心配になりました。それは「こんなに大勢の人たちの食物をどこで、どうやって調達させたら良いのだろう」というものでした。

 

 なによりも、弟子たち自身が、一日中いろいろな出来事があって、疲れ果てていたのです。朝から食事をする暇もなかったのです。それは群衆たちも同様でした。彼らの大多数はいわば着のみ着のままで、食料や飲物などは持参しないまま、主イエスについてきていたからです。もしこのまま夜になれば、彼らはみな飢えて倒れてしまうにちがいないと、弟子たちは恐れたことでした。誰よりも、弟子たち自身が疲れと空腹を感じていました。だからなおさら弟子たちは、迫りくる夜の闇を追い払うように主イエスに訴えたのです。「(12)群衆を解散して、まわりの村々や部落へ行って宿を取り、食物を手にいれるようにさせてください。わたしたちはこんな寂しい所にきているのですから」。

 

 ところが、この弟子たちの切実な訴えに対する主イエスのお答えは、実に意外なものでした。どうぞ13節をご覧ください。「(13) しかしイエスは言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。この主イエスのお言葉に、弟子たちは驚きを通り越して困惑したことでした。だから、彼らはすぐにこう申し上げました。「(13) わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、この大ぜいの人のために食物を買いに行くかしなければ」。この弟子たちの言葉には主イエスに対する苛立ちを感じ取ることができます。「主よ、あなたは私たちに、こんなに大勢の群衆たちのために食物を買いに行けとおっしゃるのですか?。私たちがいま持っているのはパン5つと魚2匹だけです」。

 

 私たちは14節から16節までを通して読んでみましょう。「(14)というのは、男が五千人ばかりもいたからである。しかしイエスは弟子たちに言われた、「人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」。(15)彼らはそのとおりにして、みんなをすわらせた。(16)イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。(17)みんなの者は食べて満腹した。そして、その余りくずを集めたら、十二かごあった」。ここに「男が五千人ばかりもいた」とあることに気を付けて下さい。群衆の中には当然、女性や子供たちもいたわけですから、たぶんそこには15000人ぐらいの人たちが集まっていたのではないでしょうか。そういたしますと、主イエスは弟子たちにお命じになって「(14)人々をおおよそ五十人ずつの組にして、すわらせなさい」と言われたのですから、ガリラヤ湖畔には50人ずつのグループが約300現れたことになります。

 

 その50人ずつの300のグループに、主イエスは「五つのパンと二ひきの魚」を弟子たちにお命じになって配らせたまいました。すなわち「(16)イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた」のです。弟子たちは12人ですから一人が25のグループを担当したことになります。いずれにしても、常識的に考えるなら「五つのパンと二ひきの魚」で足りるはずはありません。この常識を別の言いかたで申しますなら「私たちの経験にもとづく認識」になります。つまり、弟子たちはここで、自分たちの経験にもとづく認識と、主イエスの御言葉の、どちらに従うべきかを問われているのです。

 

 そして大切なことは、弟子たちは、主イエスの御言葉に従ったことです。言い換えるなら、弟子たちは「五つのパンと二ひきの魚なんか15000人を前にしては無に等しい」という経験的認識をかなぐり捨てて、ただ主イエスの御言葉のみを信じたのです。もちろん、人間の経験的認識を軽んじることは間違いです。しかし、経験にもとづく認識や価値観だけに囚われて、主イエスの御言葉に聴き従わないことが私たちの罪の姿なのではないでしょうか。偶像はただ木や金属で作られるものだけではありません。私たちの経験にもとづく認識や価値観も偶像化するのです。そしてこの偶像は私たちにこのように囁きます。「おまえが持っているのは五つのパンと二匹の魚だけではないか。そんなものがいったい何の役に立つのだ?」と。

 

 弟子たちも、この偶像の囁く声を聞いたに違いありません。しかし、大切なことは、彼らはその偶像の声に聴き従ったのではなかった。そうではなくて、主イエスの御声のみを信じて、主イエスの命じたもうことに従ったのです。つまり、弟子たちは信仰によって偶像をかなぐり捨てて、キリストにある真の自由を得たのです。ヨハネ伝831節と32節を読みましょう。「(31)もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。(32)また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。

 

 今朝、併せてお読みした旧約聖書・詩篇23篇に、このように告げられていました。「(1)主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。(2)主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。(3)主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる」。これはイスラエルの王ダビデがサウルによって殺されそうになった状況の中で歌い上げた詩です。食物も水もなく、安心して眠れる場所もなく、安全も、平安も、信頼できる者も、頼みとするべきものも、何ひとつ無い危機的な状況、壊滅的な状況のただ中にあって、ダビデは歌い上げているのです。「(1)主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」と。

 

 一昨年の8月、私は親友であった水野穣牧師の記念会を行うために、瀬戸内海の直島という小さな島にある教会に行きました。水野君は高松の屋島教会の牧師でしたが、6年間に及ぶ闘病生活の末に2018年の811日に天に召された人です。私は水野君の奥さんと、水野君の弟子である藤沢教会の黒田牧師と、記念会の礼拝でどの讃美歌を歌おうかと相談しましたところ、ぜひ「主はわが牧者」という讃美歌を入れて欲しいという要望が出されました。聞けば、それは水野君の愛唱讃美歌だったというのです。新しい「讃美歌21」にあるもので、私は知らない曲だったのですが、このような歌詞であります。

 

1)「主はわがかいぬし、われはひつじ、御恵みによりて、すべて足れり」。4)「死の陰の谷を、行くときにも、災い恐れじ、主ともにます」。6)「命ある限り、さちはつきず、主の家にわれは、永遠に住まわん」。

 

 私たち一人びとりに、いま聖霊によって現臨したもうキリストにより、この詩篇23篇の幸いと平安が、豊かに与えられているのではないでしょうか。「主はわがかいぬし、われはひつじ、御恵みによりて、すべて足れり」と言い切ることのできる幸いと平安です。主は私たちの測り知れない罪を背負って、ゴルゴタの道を、十字架へと歩いて下さいました。そして御自身の全てを献げて私たちの贖いとなって下さったのです。教会はこの十字架と復活の主イエス・キリストの御身体であり、ギリシヤ語では「コイノニア」と呼ばれます。その意味は「ともに主が賜る生命の糧にあずかる者たち」です。今、私たちはそのような群れとして、コイノニアとして、ここに招かれています。そして生命の糧に豊かにあずかる者とされ、養われて、新しい一週間の旅路へと遣わされてゆくのです。

 

「主はわがかいぬし、われはひつじ、御恵みによりて、すべて足れり」。祈りましょう。